欺瞞/犠牲

自己欺瞞という非合理的な行為は一体どういったものなのであろうか。
非合理的な行為は例えば「なぜやったかの理由が明示できない」というようなことである。
「pであることを知っているにも関わらず、pでないと信じているような状態で、願望や恐怖が原因となっており、pでないと信じる根拠が希薄であること。」といったことが自己欺瞞となる。

「pが論理的真理ならば、信念主体はpを信じている」
「信念主体がpと信じているならば、その信念主体が他方でpでないと信じていることはない」
「信念主体がpと信じているならば、その信念主体は自分がpと人事ていることも信じている」
といった標準的な命題論理に加えた信念の論理というモデルがある。
ヒンティッカ自己欺瞞では
「自分はpと信じているが、実はpと信じていない」
デイヴィドソン自己欺瞞では
「自分はpと信じていないと信じているが、実はpと信じている」
といったようにされている。
自己欺瞞的に陥ってしまっている人(主体)は、自分が自己欺瞞という行為に陥っていることを認めない。自己欺瞞の階段を上っていくように動的な非合理経路をたどり続ける。
以前私は自己欺瞞に関し「夢のように陥る」といった表現をしたが、夢見がちになってしまうのはまさに自己欺瞞の階段を上っているのだろう。

さてはて、これと似た用語に「自己犠牲」という言葉が思い浮かばれる。
自己犠牲は「やりたくないのにやってしまう」「やっているけどやりたくない」なんて感想をいだく人にとっては「なぜやってしまうのか理由が明示できない」非合理的な行為のように思える。
しかしながら、自己犠牲的に見える行為は果たしてすべて非合理的な行為なのだろうか。
その人自身が「他人のために何かしてあげたい」という思いで行っているのであれば、自分がやりたいからやっている行為であるため、自己犠牲とはいえない。
大阪のおばちゃんがあめちゃんを通りすがりの人にあげる行為もあげたいからあげているのであって自分の持っているあめちゃんの量が減っていく行為をしたくなくてもなぜかしてしまっている自己犠牲とはいえない。
恋人にモーニングコールをするのだって「人に時間をあげている」行為ではあるが自分がやりたくてやっているため自己犠牲的とは言えないだろう。

黒田の行為の解釈の根本原則として
「行為者は必ず「すべての点を考慮して自分にとってよりよい」と判断されるようなことを選択しようと意図する」と定式化し合理性の基準と考えている。
ここでの「自分にとってよりよい」は利他的行為であっても適用される。利他的行為は、「他人にとってよいと思うことをするという意図でなされた行為であり、利己的行為は「自分にとってよいと思うことをするという最終的な目的のもとでなされた行為」と定義される。
「自己犠牲的な行為とは、自分にとってよいと思うことではなく他人にとってよいと思うことをすることを最終的な目的として、行為することである。」とした場合自己犠牲的な行為は黒田の合理性の基準に反している。


しかしこの基準の「よりよい」とはどう判断されるのだろうか。
意図するまではできても実際に行為まで完了できないこともある。
やりたいのにやれないという「ジレンマ」である。
「xはyよりよい」という関係には推移性、反射性、完備性が重要視される。
「∀x∀y(xRy∨yRx)」(xRyはx≻y)
このように推移性、反射性、完備性を満たした関係を「弱順序」とよび
完備性を書いた関係は「疑順序」とよばれる。
合理性を考える際、アローにおいては「弱順序」が求められるが
人間の行為の場合は完備性が満たされることが極めて低いので「疑順序」に当てはまっていれば合理性を持つといってもいいのではないかという提案もある。
完備性を備えた順序関係においては、「よりよい」という「最もよい選択肢」
完備性を欠いた順序関係においては、「よりよい」という「それよりもよいものがない選択肢」となる。
完備性を備えた最も良い選択肢は人間の行為においては存在しているとはなかなかに考えにくい。例えば、恋人と家族がおぼれていた場合、どちらを助ける選択肢をとるだろうか。どういった選択肢であれ「それよりもよいものがない選択肢」となるのならその時撮った最善の選択肢であり、合理性をよわくも持った行為といえるのではなかろうか。

メレオロジー的に考えてみよう。
「私」-「公(われわれ)」を全体と部分として考えるアプローチ法である。
「部分である」といえるために以下の3つの条件を満たす必要がある。
・「いかなるものもそれ自身の部分である」(反射性)
・「あるものの部分の部分もまたそのあるものの部分である」(推移性)
・「あるものとそれの部分があって、逆に前者が後者の部分でもあるとすれば、両者は同一である」(反対称性)
この3つを満たせば「半順序」関係にあるといえる。
メレオロジーでは、さらに
完備性を満たさないこと、真部分がより必ず小さいことが求められる。そして、諸部分が一致すれば全体も一致するという「外延性」がある。(これは修辞技法におけるメトニミーにも似た関係に思える)
「いかなるものもx+yと部分を共有するならば、xまたはyと部分を共有するし、xまたはyと部分を共有するならばx+yとも部分を共有する。」というメレオロジカルな和の操作が用いられる。
例えば、のび太とドラえもんが一緒にどら焼きを食べている場合
のび太がどら焼きを食べる行為とドラえもんがどら焼きを食べる行為のメレオロジカルな和として共同行為(のび太とドラえもんがどら焼きを食べる)を考える。
共同行為の行為者は「のび太+ドラえもん」というメレオロジカルな和となる。
のび太とドラえもんが一緒にどら焼きを食べているとしても、
もしかしたら、一緒にどら焼きを食べているということを互いに知らずたまたま一緒に食べているだけかもしれない。そう言った場合は共同行為とは言えない。のび太もドラえもんも互いに一緒に同じ行為をしているという「相互信念」が共同行為を満たすためには必要となる。
共同行為をしているかどうかを判別する基準としてアンスコムは意図的であるかどうかについて判断する基準に
「「なぜあなたは~するのですか」と聞き、相手がその問いを拒否しないかどうか」という基準を導入し、あなたを「あなたたち」に拡張する。

自己犠牲的行為の前提として、行為者自身の判断と行為者を含む共同主体の判断との間に衝突が存在することとした場合

「自己犠牲的な行為とは、自身の判断と自身を含むより大きな共同行為主体の判断とが衝突するときに、後者に従い前者に逆らうような(つまりもっぱら前者自身の判断においてより劣った)選択を意図して何かをすることである。」
となる。

衝突する価値基準の判断は「われわれ」と「わたし」で異なるが、行為は「わたし」の身体によりなされる。これが自己犠牲のジレンマである。複数存在する選択肢を行為者からみてよしあしを判断する際に、複数の価値基準に基いて順序づける空間がいくつも存在してしまう。

「行為者がφすることを意図的に選択したならば、(1)「すべての選択肢の中で、すべての点を考慮して、自分がφするよりも自分にとってよい選択肢は他にない」とするその行為者自身の判断が存在するか、または、(2)「すべての選択肢の中で、すべての点を考慮して、自分がφするよりも自分たちにとってよい選択肢は他にない」とする共同行為主体の判断が存在するとその行為者が考えている。」といった合理性の基準であれば、自己犠牲的な行為に合理性が働いてる行為と見ることができる。この全体と部分における何であるかにより自己犠牲的な行為とみられてもいわゆる自己犠牲に当てはまらなかったりする。

最後にラッセルの幸福論を引用する。
「私たちは、愛する人々の幸福を願うべきであるが、私たち自身の幸福と’引き換え’であってはならない。」
「自己欺瞞に支えられているときにしか仕事のできない人たちは、自分の職業を続ける前に、まず最初に、真実に耐えることを学習した方がよい。」
「あなたの動機は必ずしも自分自身で思っているほど’利他的’ではないということを忘れてはいけない。」
「自らの理性が悪くないと告げる行為について、あなたが後悔を感じ始めるようなときには、いつでも、後悔の感情の原因を調べ、その不合理性について、細部においてまで確信を持つべきである。」

「○○のため」と思い自己を犠牲にする行為をしていたとしても、その「○○のため」は自己欺瞞かもしれないのである。

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