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22’06Connection addicted


毎月何かしら心の整理に書いていた文章を書いていた人間だった。しかしながら心が躍らない。
書きたいこともさして見当たらない。
自分のことを書こうと思いつつも、「まぁいいや」で終えてしまう。自分のために書いているはずなのに、それすらも「なんだか気乗りしない」と気づいたら数十日放置されてしまうことが増えた。日々の無気力に圧迫され、寝て寝て寝て脳を休めたくて、そんな風に自分を甘やかしていた。
現に今も気乗りしない。

倒れたことでインターネットの人と深く話すようになり、実体を持って会うことも体験した。
過労でぶっ倒れる、なんてことは数える気も起きないほど記憶にある限りは数度あったが、私がいう倒れるというのは脳が使い物にならなくなったあの日のことだ。それ以前とそれ以後で"私"は"私a"と"私b"くらいに違う。というより、倒れる以前の私(私a)がどんな振る舞いをしていたのかあまり記憶を呼び戻せない上、どんな私だったのか私であるのに私がわからないという状態がここ数年続いている。
現私(私b)はあまりにも病んでいる。何事にも自信がない。そして人が苦手だ。触れられたくない、言葉を組み立てて話すのが上手くできない、ポンコツそのものだ。頭を使うことが下手になったという実感だけはある。私aはいつまでも現私に現れてくれない。
ネットから繋がった人が知っているのは私bだけであり、私aと私bを知っているリアルの知人たちとは違うそこにしかない不思議な空間を感じることがある。私aを見せられないことは哀しいけど、私bを受け入れてもらっている現状に、ポンコツを曝け出せる場所があることに、自分の感情に素直になること、自分の感情に嘘をつかず見栄を張らずにそのままを出せることに、自分の足りなかった部分を訓練できる場をもらえたような気がしている。

私aを知っているリアルの知人たちは「まさかお前がなるなんて思わなかった」とか「頑張り屋さんだからなぁ」とか、口を揃えてみな似たような上記の内容を伝えてくれる。
私aを知るものからすれば私はすぐに弱音を吐くような人間ではなく、ましてやメンタルで病むことや倒れることがでるとは想像のつかない悩まず楽しそうに暮らせているいつも幸せそうな人間だったのだ。
私bの現私からすれば、どこにそんな要素があるのだろうかというほど全くの別の人物の話のようにしか思えない。
わたしはどこに行ったのだろう、なんて思うが、結局私bも私なわけで、今出てくる私を必死に愛でるしかないわけである。
ゆえにポンコツはポンコツでしょうがないのだ。弱音はそのまま出す。そのまま出せることに肯定する。そうやってポンコツであること、ポンコツを認められること、自分ができない人間だと認めることに素直になりたい。

就活があらゆる人間を病ませてしまうのは、私を誇大して見せているからで、そのままの自分をいかに削るかという視点に注力してしまうからである。それは自己と結びつけてしまうと半永久的に解けない難問である私を探る行為になってしまう。ゲーム感覚でパズルを当てはめるかのように自己と結びつけない感覚がどこかで必要になる。
私bであることはその逆の行為な気がしてありのままをありのままで保存することはよくいわれる自己肯定感の育みになるのかもしれない。

対面で話す時、私はよく手が震えている
質問をされるとテンパってしまう
伝えたいことを話す時、全くもってうまく伝えきれない
頭がダメになってしまう、ただただダメになってしまう
びっくりするほど人の話を理解することも、それに対して答えることや、自分が言いたいことを伝えることも下手くそを極めている
自分でも自分で言っていて何を言っているのかと訳がわからなくなることが多い
簡単に言えばコミュニケーションや、説明をする能力が欠如している
受け答え、というものがあまりにも下手
卑下することなく私bから出会ったリアルの人間から言われることを踏まえて、本当に上手くできない人だと思う、

「どこに行っても成功する」と言われていた人間がいまや「どこに行ってもコミュニケーションが下手」な人間へとなりつつある。
以前は挨拶を気持ちよく行っていた人間が挨拶をすることが一つのハードルとして必要な努力になってしまうほど倒れる以前と倒れた後の私は違うものになってしまっている。
使える努力値にはもちろん限界があって、今まで大して消耗していなかったものに対し大量に消耗することになるゆえ、どちらの私も頑張っていたにせよその頑張っていることで生まれている成果の差は歴然になるわけである。
挨拶がなんのそので勉強などに時間を割けていた私とは一変し、挨拶を成功させることで心が限界で疲れ切ってしまい頭も動かせず眠るしかできない。
奪われる体力は同じなのにできていることは分かりやすく違う。

だからこそポンコツを曝け出してそのままを受け止めて頭がさくさく動く感覚を取り戻したい。
繋がりを求めたり離れたり、中毒にならない程度に。
失われた時を取りかえすことから脱却し日々私を受け入れたい。

崩れている私やポンコツな私、素直であるがゆえそんな私は受け入れられるし、そんな私であることを好きになれるのは表出される私に見栄を張らずにいられる空間があるからだろう。

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