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22’06connecting dots

剥がれかけの瘡蓋を剥がす瞬間が何よりも亢進することがある。
出来立てホヤホヤの皮膚と無理やりひっぺはがすことで隠されて守られていた赤みがかった皮膚が痛みを顕にしているようで。そんな新生と痛みの共存にどことなく興奮を覚える。
やわやわな皮膚、再生されていく様はぶつ切りでしか見守れないが体の何かの成分が頑張って再生しようと治癒を促してくれる。

ぶつ切りで「私」を見つめたならば、そこには治癒の何かが出現していたりするのやもしれない。
「幸福である」と言い切ることは常に揺蕩う。
断言や言い切り型の言葉を使う回数は歳を重ねるにつれて減退していることだろう。言い切ってしまうことは物語を終わらせてしまうようで、この後も続いてしまう生の方向を見失ってしまうためできないことばかりだ。
物語は途中にしておきたくて、不安はいつでも持っておきたくて、「やりきってしまった」というと終わってしまううえに、満足を得てしまったら私は何も動けなくなってしまう。
私にとって満足を完了しないことは生命力を持続させるための一つの手段となっている。
がんばるから褒められたいという単純な原動力でしか生きることをのばせない人間であるため。
いつまでも私は「満足した」と言えることはないだろう。満足してしまったらそこで終わってしまうから。

だからこそ自分が頑張ったことを満足したものとして出してしまうと今後の私が生きるためのやる気を出せなくなりそうで褒められたい思いと拮抗することが往々にしてある。

今年の私は頑張らないといけないと思って動いた。昨年の冬は手術をしていたり入院をしなければいけなかった人間とは思えない。
今年の半年が過ぎる前に、その私の頑張りを少しでも振り返っておこうと思う。

私は年始にいくつかのなんとなくのふんわりとしたやろうかなということを思い浮かべていた。
(ここではっきりと目標だとかやろうと思っていることだと言えばいいものの、そんなきっちりとした大層なものでもなかったので、そういってしまうと自分の心を苦しめてしまいそうなのでそう扱うことはない気がする。)


英詩、村上春樹と翻訳、小雑誌に触れる
月一4時間対面議論(8-12)
自分用の雑誌づくり、ポストカード量産(写真、イラスト、詩)
芸術論評(書評)、鑑賞と感想戦4時間 年2
株( ;  ; )

テーマ「理論より実践」
漫才ネタ

こんな感じに簡単なワードを並べていた。

英詩はアワード受賞者を洗いざらい並べ尽くし片っ端から読み漁った。
村上春樹や翻訳に関する書籍も片っ端から読み漁った。
翻訳に関する仕事を今年中にひとつはしてみたいなと思い、無事にそれは辿り着けた。小説家の人と話し合う機会ももらえた。
小雑誌は初めの方はだいぶ色々漁れていたが中途半端に終わっているが、思わぬ出会いで雑誌に関する仕事ができた。
対面議論は月一の開催は厳しいと即座に切り替え、年4回の方向で現在2回開催を無事終えた。
自分用の雑誌づくりの前段階として触れてみたかったネットプリントでの試作を遂行した。
ポストカードは数枚ほどだがつくることができた。
芸術論評はファイアパンチ作者の漫画「さよなら絵里」で文学論と絡め書く練習をしようと思ったが出すことができなかった。文学論の学習も中途半端に終わっている。
鑑賞と感想戦は評論家を含めたマニア等で集まり同じ映画を鑑賞しその後映画と同じ、もしくはそれ以上の時間感想を話し合うことを行い同じ作品の様々な見え方を楽しみつつ、評論の参考に行った。評論家を職にしている人と初めて話すことができた。
株は一ミリも触れていないので終わっている。
漫才は一行も書いていない、しかしネタ合わせしてくれる相方は見つけたので書いたらネタ合わせができる。

思いの外半年でなんとなく思っていたものを道標に生きつつある。

他にも点が繋がるようなことはあった。
カフェを紹介する仕事だとか、本に関する仕事だとか、かってカフェで働いていたことや文字を書くことをしていたこと、小学生の頃に言っていた叶うかどうかなんて現実的視野一切なしのあの夢物語として語っていた「友人がパティシエをしているカフェを取り上げてメディアに出す」ということを本当に叶えてしまっていたり。
以前からそんなことはあったが、今やっていることもまた先々で何かと融合して生まれてくるのだろうか。

仕事をもらう時「異例」「ドラマみたい」「普通はこんなことおきない」ということを言われることが割とあり、「君の名前も姿も知らないけど俺たち仕事してんね」と物語ではない現実世界でいわれ、メタバースだねとSFまじりの現代用語を返答に使いそうになったのを口を噤んだ。

自分の現実世界と離れていればフィクションとして少しでも扱える想像の世界であれば希望に満ちた語のように気楽に使えるが、こうも自分とリンクする場でドラマではない現実世界でドラマじみたことが起きてしまうと怖い。
私にはキラキラしすぎていて受け止めづらい。

私が欲しい希望は、夕方スーパー帰りの袋からはみ出たネギや大根が何に使われるのかを考えることを楽しむ世界線のドラマなのだと思った。
私は、朝ごはんに作るサンドウィッチのレパートリーを増やすことを勤しむ生活を続けたい。それ以外はただのおまけでしかない。

赤裸々に半年を振り返ってみた。
もう少し語りたいところがあるがまとまった文章を書ける体力がないためまた追記にしようか。

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