見出し画像

【ときメモ】ときめきメモリアル30周年ライブのレポートを「Gamer」に寄稿したこととか、記事を書く仕事やキャラ特化記事の原点の話

だいぶ今さらなのですが…。ライブイベント「ときめきメモリアル 30th ANNIVERSARY LIVE エモーショナル presented by TOKYO MX」のレポート記事を、ゲーム情報サイト「Gamer」様に寄稿し、掲載いただきました。

まずは、今回初めて寄稿するにあたっての対応とともに、ライブレポートに関してお任せいただき、そして余談がある“いつも通り”な内容でも許容して掲載いただいた、「Gamer」編集長のTOKENさんにはとてもお世話になりましたし、感謝しております。この場を借りてお礼を申し上げます。

で、

X(Twitter)経由でいらっしゃった方だと、まず疑問に思うのが、なぜいつもとは違う別のサイトで掲載しているのか、ですよね。

この話の前段階として、自分はたまにライターと呼ばれて、ライターだとフリーランス(フリーライター)だとイメージされる方もなかにはいらっしゃる方もいるかもしれませんが、媒体運営会社の会社員(正社員)として働いています。

なので、基本的に…というか原則的ぐらいに、他の会社のメディアに記事を書くということはできません(一部コラム寄稿などで例外はあるのですが)。ただ、昨今の働き方における副業解禁の流れもあり、今回は副業という形で申請をして、許可を得た形での寄稿となっています。なので、会社は辞めてないですし部署異動とかもありません。引き続き硬派(自称)なIT系編集記者は健在であります。

ではなぜ外部のメディアに書いたのか、というか、自分のところで書けばいいよねという話なのですけど……。これについては、今のところ諸般の事情とお伝えをしています。もったえぶるような話ではないのですが、しかるべきタイミングでちゃんとお知らせしたいと思っています。それが来ることも願いつつ……(今回、なぜGamerさんだったのか、というのも何かの折りには…と思いつつ)

ただひとつ言えるのは、こうした寄稿は1回限りではない(予定)かと思います。ありがたいことに自分の記事を楽しみにしてくださっている方がいらっしゃるなかではお手数をおかけしますが、自分のXなどでチェックしていただけますと幸いです。

それにしても、他のメディアに寄稿することは一切告知せず、しかも普段書いているコンテンツではないタイトルのライブレポにもかかわらず、ひとりやふたりではない方々が、自分が告知する前にお気づきになってすごく驚きました。本当にありがたく思います。

「ときめきメモリアル」30周年ライブの日は、「ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ 2nd Live Tour」神戸公演だったり、アイドルマスターシンデレラガールズユニットライブツアー福岡公演ともろかぶりで、自分のまわりはそちらに行った方々が散見されたのですけど…w。

やはり世代というか、自分にとって影響の大きいタイトルだったんです。そのあたりは余談とかにも書いたのですけど、単純にハマっただけの話しではなくて。

ゲームもPCエンジンDUOを買っていたのが幸いして、シューティングゲームに割と親しんでいたなかで、興味はあったので発売日に買ってハマって。そのときのことはうろ覚えではありますけど、ずーっとプレイしていたかな…というのと、もうひとつ、自分は小さいころから結構ラジオっ子で、ずっと文化放送をよくきいていたんです。そんななかでアニメ&ゲーム(A&G)の展開が始まって。そして「ツインビーPARADISE」も聴いていたのですけど、その「もっと!ときめきメモリアル」もよく聴いていました…。PCエンジンで人気に火が付き、ラジオでもっと火が付いて、プレイステーション版が出たあたりぐらいがすごく人気の高まったタイミングなのでは…と、うろ覚えだけど、そんな感じだったかなと思っています。

たまにつぶやいたりしているのですが、自分が記事を書く仕事の始まりで、きっかけにもなったのが、「バーチャル・アイドル」という雑誌ですね…。

1994~1997年に刊行されたのですけど、自分はいわゆる後半期というか、1996年に月刊化したタイミングで入って、1年ぐらい在籍していた感じです。

そもそも記事を書く仕事をするなんて考えてもいなかったというか…。そのあたりは、前に自分の誕生日の時に書いているのですけど……。

歳を重ねてもゲーム好きというのがかわらないなかで、読んでいたゲーム雑誌に「編集アシスタント募集」という告知があって「時給●●円」って書いてあったので、時給だったらアルバイトで誰でもできる仕事内容ぐらいのつもりで応募して入ってみたら、いわゆるスタッフライティングだったので、自ら誌面レイアウトもある程度考えて(いわゆるラフをきる)、原稿も書くというお仕事だったと。そんな感じで、記事を書くというお仕事をはじめました。当時「ときめきメモリアル」の人気が全盛から少し落ち着くぐらいの時期で(わかる人には、藤崎詩織が「教えてMr.Sky」でデビューしたぐらいのころ)、自分もはまっていたので、それに関する記事を多く手掛けてました。「ときめきアイドル」について書いたのは、そういうのも影響してます。

本当にこのまんまで。誰でもできるアルバイトとしてのお手伝いだと思ったら、いきなり実践現場で教わった…そんな感じです。

あまり覚えてないけど、当時プレイステーションやセガサターンの専門雑誌のほうに行きたかったのだけど、当時の編集長の話を聞いていて面白そうだからというのと、ときめきメモリアルは好きだったので、キャラクターもののほうがいいのかなと思って希望したのかな…。で、入るタイミングでそれまでときメモを担当する方が離れるというので、そのままときメモの記事を毎回書く感じになったと思います。

本当に未経験でしたし、やはり紙面の見せ方がゲーム専門誌とは違ってシステムを紹介するものではなく、女の子キャラクターの魅力を伝えるのが主体なので、キャラのイラストや画像もいい意味で定型から崩してメリハリをつけなければいけないとか、見出しも文章も今ではありえないような勢いのある言葉使いをしていて。このあたりは仕事しながら覚えていった感じですね…。

それで、いろいろ記事にしていったなかでも、個別にピックアップした書き方をする記事を館林見晴でやって。なんでそうなったのかはもう覚えてないのですが、サターン版が出たぐらいの時期で、個別に取り上げてもいい話しになったからかな…人気は高かったので。特徴的な髪型や髪留めはもとより、目や手足なども含めた外見的な容姿やら、セリフなどから感じる内面的なところまでの紹介で。今思うと、キャラクター記事でやったことの原型ですね…。雑誌の紙面は載せられないので説明が難しいですが。

そのあと、いろいろと記事をやっていって。山場は藤崎詩織が「教えてMr.Sky」で、当時では珍しかったキャラクターのアイドルデビューがあって、その特集で3日間会社に泊まり込んで、当時実家住まいだったので両親から心配されたとかありました…w。

在籍時終盤は「虹色の青春」の情報展開が行われていて、一区切りとなるタイミングで虹野沙希のインタビューというのもやって(※キャストではなくキャラクター自身)。これも思い出深いですね…。企画を立てたのは自分ですが、こういうのもできるんだ…というのもあったし、お気に入りが虹野さんでしたし、キャラクターそのもののインタビューこそ、実在感も出せるところでもあるので。

雨がぱらついていたので、ビニール袋に入れてたw。

こうした出来事もそうですし、まだまだ社会に出て間もない時期での、それこそ昼夜問わず徹夜もしつつでしていた仕事ではあったので、大変ではありましたけど、ある意味青春のような時間でもありました。

このときの、キャラクターを見せていく記事の経験が生かせることはあるとは思ってなかったですけど、前のゲームメディアで「ドリームクラブ」を扱うなかで、特定のキャラクターを押し出す見せ方をして……で、今にいたると。やはりあのときの経験がなければそのような発想に至らなかったと思うので、今にいきてるとは思います。

逆にウェブの一般的な記事のフォーマットだと、特定の画像を大きく見せるというようなメリハリをつけるのができないので、見た目にインパクトに欠けるところもあって、逆に難しいと感じたこともあったとか……、最近はオタクな早口みたいな文字の羅列をしていますけど、あれは全部読んでもらうというよりは、「なんかやたら書いてある」という見た目のインパクトのほうが大きいです。それでもちゃんと読んでいただけるのはありがたいです。

ときめきメモリアルは節目で記事として書くことはあって。そもそもときメモが「3」が出たあと(2001年)、しばらく期間があったなかで、自分がウェブでのゲームメディアの仕事をしたときに「4」が2009年に出たのですけど、まさかシリーズのナンバリングがまた出ると思わなかったし、書ける機会があると思ってなくて。もうサイトは見られないですけど、ゲームインプレションも書きましたし、めぐりあわせもあって、ときメモ4は音泉さんでネットラジオが配信されていたのですけど、実はずっと取材して記事も載せていたのです。半年ぐらい月一でスタジオに行っていて。今でも覚えてます…。

それで「4」のあともなかなか次というのがきこえてこないなかで、「ときめきアイドル」が出て。まさかかとは思いましたけど、これはと思ってKONAMIさんに直接出向いて記事をやりたいと伝えましたので…。

これでも一端ではあるのですけど、やはりシリーズ通していろいろ思い出は深いですね。

自分だけではなく、むしろ自分以上に思い入れを持ち続けて、そして愛されていたんだというのが、このタイミングでライブをすることによって可視化されたのではないかなと思います。

結局30周年の日には新情報が発表されませんでしたけど、むしろ何もなかった時期が長いので、誤差なのではないかとw。気長に待ちたいと思いますし、また何か記事も書けるような機会があるといいなと思います。