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最近腑に落ちたこと①

自分がなんで就職するのか。入社を目前とした今、カフェスローでコーヒーを飲みながら話していた。ちなみに、私が就職する理由は、世間体やお金というのが9割以上の理由だけれど、自分を納得させるための動機づけとしては、やっと出会えた大切にしたい価値観、「スロー」に納得感もって向き合うこと、としている。「スロー」に向き合うためには、それを生み出した「ファスト」、つまり、競争社会的な文脈を知らないと、自分なりの納得感が浅くなる、とこじつけている。

カフェスローとは、東京国分寺にあるスロー・ムーブメントの拠点となるオーガニックカフェで、行きつけだ。スロー・ムーブメントを卒論で書いた私は、カフェスローのボランティア活動のチームに入っている。ボランティア活動といっても、今のところ、よくカフェに足を運ぶだけで、私は何も出来ていない。それなのに、カフェのみんなは優しくて、こちらが申し訳なくなるほどだ。

“そこに居ちゃいけない感覚”

私は、相手や組織に貢献できていないと“そこに居ちゃいけない感覚”が常にある。貢献できていないと、相手や組織が自分に時間を費やしてくれることが罪悪感につながるというか、申し訳なくなるというか、そんな感覚だ。

自分の話を聞いてもらうのであれば、相手にその時間分のお金を払った方が安心して話せるし、聞き手に回って相手の話を聞くことで相手が少しでも気持ちよくなってくれるのならば、“そこに居てもいい感覚”になれる。また、組織に所属する際には、業務を人並み以上にきちんとこなすとか、人とは違う角度からの意見を言えるとか、そういうことができないと“そこに居ちゃいけない感覚”になる。

つまり、他人から「どう思われているか」が最大の判断基準であり、モチベーションでもあるということである。そのこと自体は、決して悪いことではないし、むしろある程度自然なことだと思うが、苦しさを伴うことであるとも思っている。

“そこに居ちゃいけない感覚”とスロー・ムーブメント

そんな自分がなぜカフェスローにかかわっているか。これを説明するには、スロー・ムーブメントの話をしたくなるが、とても長くなるので頑張って要点だけを書くようにする。

私は、スロー・ムーブメントと“そこに居ちゃいけない感覚”とを次のように結びつけられるのではないかと考えている。

・人間は自然の一部。自然は人間なんかの思考が及ぶところではないという考えがスロー・ムーブメントのベースにある。
・“そこに居ちゃいけない感覚”など、自分の存在意義を考えること自体がおこがましいことである。自然の循環の中で生まれたはずの人間は、存在意義に対する答えがあるとしても、人間の思考を超えたところにあるはずである。
・つまり、存在意義を考えるという行為自体が、大きな大きな自然の中の人間、という視点に立って考えればおこがましいものであり、人間にそんな資格は果たしてあるのか、という問いをまずは投げかける必要があるのではないか。何かのために存在しているのではなく、「気づいたら存在していた」というのが過不足のない答えではないか。

スロー・ムーブメントの拠点であるカフェスローは、上記のような意味での「なぜ」を問われにくいようなあたたかさがあると感じている。理論的に説明できないけれど、ここにいます。そんなリアルな理由でも、あたたかく迎えてくれる。反対に、明確なそれっぽい理由は、相手に存在意義を認めさせるための手段でしかないと思うのだ。

それなのに、そんなことはわかっているのに、私はどうしても、相手や組織のためにならなければ、“そこに居ちゃいけない感覚”をカフェスローにも持ち込んでしまう。そんな悩みを、カフェスローのみんなに話してみた。

循環の中にいる感覚

“そこに居ちゃいけない感覚”をどうしても持ち込んでしまう私は、4月から社会人となればおそらく、会社で存在意義が得られるためならば、休日返上で必死で勉強してしまうと思うし、こうしてようやく出会えた安心できる場所、カフェスロー、私にとって大切にしたい価値観を具現化しているような空間から距離を置こうとしてまでも、会社に意識を向けようとするだろう。不器用な私は、その他の情報や活動をシャットアウトしてまでも、打ち込まなければ、“そこに居ちゃいけない感覚”を和らげることができないのである。

そんな悩みをカフェスローのみんなに話したら、心が軽くなるような言葉をかけてくれた。それが最近腑に落ちたことである。

「4月からは、会社でとにかく今まで通りの心持ちで頑張ってもいいから、カフェスローでは、“そこに居ちゃいけない感覚”を持たないような挑戦をしてみれば?カフェスローでも“そこに居ちゃいけない感覚”を持ちながら○○ちゃん(私の名前)がいることは、まわりもみんな望んでいないし。」

東京の企業で働いたのち、スロー・ムーブメントの一翼を担う会社で仕事をしている、少し年上の先輩の言葉である。ほんとその通りである。自分でも薄々理解してはいたけれど、やっぱり言葉をかけてもらえると違う。

存在意義と存在理由に関する話もして、もう一つ腑に落ちたのは、ここで何がしたいとか、人生で何がしたいとか、目標とか、そういうことは無理して持たなくてもいいということ。そういうのを持っている人を見て、「なんか面白そう!」と思ったら、そっと乗っかってみて、みんなでその人の目標とかやりたいことを応援する。反対に、自分がこれやりたい!と思ったことも、その場にいる誰かが代わりにやってくれるのなら、それでいい。そういう循環の環の中に、自分が漂っていればいいのではないかと思うようになった。

自分が自分が!というガツガツした感じが苦手な私は、この価値観を良くも悪くも利用して、それでいいことにしている感覚もあるけれど、別にそれでいいんじゃないか、そう思った。

タイミングだからしょうがない、という言葉もカフェスローで聞いて腑に落ちた言葉だけれど、とりあえず4月からは、会社において“そこに居ちゃいけない感覚”を和らげるべく、必死に勉強してもいいことにする。そのせいで、自分が本当に向き合いたいスローの価値観から距離を置くことになってしまったとしても、たまたま私はタイミングが合わなかっただけで、その循環の環にいるほかのだれかが、代わりにやってくれればいい。いつでもその環に戻ることを待っていてくれるような安心感もある。

ほかのだれかが楽しんでいた今日

そして今日、カフェスローの仲間が、私がタイミングが合わずに行くことのできなかった活動を代わりに楽しんでいた。その友達が「すごくよかったよ!今度話すね!」と連絡をくれたとき、少し前の自分であれば、「自分が」行けなかったことが「悔しい」という感情を少しは持っていたように思う。しかし今日は、不思議とそれがなかった。自分ではない、同じ循環の環の中にいる仲間が楽しんでいる、ということを素直に喜べたし、こうやって、ほかの仲間が循環を回してくれていて、いつでもそこに戻ってもいいんだなあと。そんな、自分の中の感情の変化がとても嬉しかった。

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