自己肯定感と愛着と(愛着については次回書きます)

人というものは何か他者の影響を受けて何かをしてみたいと思ってしまうことがある。

とりわけ、私もなんとなくnoteというものに関心持つきっかけがあったためこのような文章を書きたくなった。

このテーマである自己肯定感という概念についてもまた影響を受けて選んだテーマであるが、私自身学生の時に興味のあるテーマであったし、この概念の近辺領域にある、自己有用感や自尊感情、レジリエンスや本来感など書物や論文などを少しは読んだことがある程度であるが、なんとなく、それらのことを踏まえ今の自分の思っている見解を述べたいと思う。

結論から言うと自己肯定感は大切なものではあるけれどもしっかりと肯定感の中身を分類し、区別していく必要がある。

そもそも、自己肯定感というものについての規定がまず難しい。
今や誰しもが自由に発信できる時代となり、誰もが好むような綺麗な言葉たるホットワードについてはそれぞれの価値観や立場で書かれていることが多くあると感じている。

ならば、わたしもそれにならって、自分なりの自己肯定感という概念を書き、その後に出てくる自己肯定感という概念はわたしの考える自己肯定感ということにしようと思う。

自己肯定感とは、自己に対する肯定的な評価であると規定する。

自己と名のつく概念は本当にたくさんあり、何が何だかわからなくなることがあると思うが、私は自己肯定感をこのように表現する。

具体的には自分って本読むの得意だなとか友達多いなとか自分は自分であっていいのだなと思うようなことである。

さて、ここで先に述べた自己肯定感の区別について書こうと思う。

私が今まで文献を読んでいて、自己肯定感関係で1番しっくりきたのが、近藤卓さんの考え方である。
厳密には自尊感情という文脈で書かれていたが、私は自尊感情≒自己肯定感と考えているため、ここにおいては近藤さんの考えを紹介する。

自己肯定感とは、基本的自己肯定感と社会的自己肯定感の2種類ある。(厳密には基本的自尊感情と社会的自尊感情である)

基本的自尊感情とは人間のベースにある肯定感であると考えられ、自分はこれでいいんだ、自分には存在する価値があるという自己の存在を認めるような感情のことを指す。

社会的自尊感情とは、他者依存により自己への肯定であり、具体的にいうならば、テストで100点取って周りから褒められるから自分はすごい、人よりも走るのが早いから自分はすごいという他者の評価や比較によって得られる自己への肯定的な評価である。

双方ともに大切ではあるとは思うが、個人的には基本的自己肯定感の方が大切である。

自分は自分で良い、存在する価値があると思うことこそ自己の肯定であり、その肯定が続く先にはできる自分もできない自分も自分であるという自己受容につながると考えている。
根拠のない価値観だが、自分を受け入れることで相手を受け入れることができ、協同的に人生を生きられると感じている。ともすれば、基本的自己肯定感を高め、自己受容していく営みは社会を構成する上でとても大切なものであると思っている。

しかし、社会的自己肯定感も大切ではある。他者からの評価をエネルギーに行動することもあり、絶望し、エネルギーがない時には他者からの温かい言葉や自分が他者の役に立っているという評価はとても良いものになる。

しかし、その一方でそのエネルギーがある時に社会的自己肯定感だけ高めて基本的自己肯定感を、高めなければ、承認欲求の塊となる恐れもある。

承認欲求はある程度人にあるものではあるが、それが強まると不適切な行動などをして注目を得るなどの行動をする恐れもある。

そのため、基本的自己肯定感を高めていく必要性はとても大切である。

ここにおいて基本的自己肯定感を高めるにはどうすれば良いかについて書く。
ここでようやく、題名にある愛着が関係してくる。

そもそも、人が自分に対する肯定感を持つにはまず他者や自己に対する信頼感を持つ必要がある。

では、その信頼感とはどこで生まれるのか。それは乳児期における親とのやりとりが深く関わってくる。

ここに書こうと思ったが、長くなるので次回に続きます。

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