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メモ 中妻貝塚から推察する古代の交易


縄文時代後期から晩期の大規模な貝塚、中妻貝塚(直径150メートル、25,000平方メートルの範囲におよぶ、厚さ1-2メートルの貝層からなる利根川流域最大の環状貝塚)から100体にも及ぶ骨が発掘され、DNAを調べたところ、バイカル湖あたりのブリヤート人のものに近いとのことだ。

ブリヤート人は、出雲伝承によると、アジアで広く展開していた商人だそうだ。彼らは、道具で商いをしていたのだろう。場合によっては、職人も動かす。

ブリヤート人商人が、何もない土地で貝塚を作ったとは考えられない。むしろ、縄文時代の茨城県には、交易相手がいたと考えるのが普通だろう。

そして、ブリヤート人は、驚いたことだろう。砂鉄がむき出しになっている鹿島灘に。

彼らは、中央アジアから、製鉄族を連れて来た。そして、工場を作り、矢じりを作った。漆の栽培方法を教え、大きな弓を作る技術を伝えた。と思う。当然出来た、道具を売り歩く。香取から西へ行けば、諏訪あたりまで、船でいける。そう、ブリヤート人は、アムール河を船で下って来て、津軽海峡を横切り、太平洋を南下し、古代の茨城県に交易にやってきた。そこで、製鉄所を作り、シナノへ運んだ。

茨城の縄文人は、ブリヤート人の技術者を、婿にし、製鉄技術を手にいれた。かつて雑賀衆がやったことを古代からやっていたわけだ。血は争えない。

縄文人は、鉄の矢じりよりも、ブリヤート人が乗って来た、に興味をもったことだろう。それにのれば、交易ができる。ブリヤート人2世・3世になると、南へ向かったに違いない。

高度な科学を手に入れた古代の茨城県人は、八丈島にも移り住んだかもしれない。さらに南の小笠原へも。

インドに商いにいっていたブリヤート人は、クナト族の王に、シナを迂回して、ゴビ砂漠を越え、アムール河を下ったところにある島が、温暖で、自然や資源に恵まれ、先住民も穏やかな民であることを伝えた。そして、道案内をした(出雲口伝より)。

クナト族は、青森に土着し、クニを作った。アラハバキとはインド由来の信仰だ。

インドや日本に来ていたブリヤート人は、バイカル湖から北へ向かえば、アンガス河・エニセイ川を下り北極海に出る。北欧が日本人と親和性があるのは、そのせいかもしれない。

縄文人とブリヤート人のハイブリッドは、北極海から、北米にも渡ったかもしれない。

いずれにしても、天孫族が渡来する遥か昔の話だ。出雲族も天孫族も関東へは近づけなかったというのが真相ではないだろうか。多国籍ではあるが、渡来の順列によっては、先行者利益があると見る。後発は、西でクニを作るしかない。

諏訪の洩矢も探る必要がありそうだ。


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