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(Book)✨人間を磨く 人間関係が好転するこころの技法

3週間の海外研修に引率するとなって、やらなければと思ったのは読書です。
というのも、フライトが長いんですよね。プライベートだったらゲームをするのですが、そうもいかないので本を持って行きました。
その中の1冊がこちら。人間を磨くというキーワードが面白そうだと思いました。

最近なんで人は悪口を言うんだろうっていうのに、思いを巡らせています。
例えば、愛のある悪口ってありますよね。あの人ってああいうとこありますよね、アハハみたいな。それは別に良いんです。
行っても明らかに悪意があって、自分の仲間作りとか相手を陥れるために悪口を言っている人も少なからずいます。
Twitterとかでよく思うんですよね、なんて稚拙なんだろうって。

ということで、昨今の社会では心を豊かにすることが重要だと感じます。
っていうことで、本書人間を磨くです。




私たちは完璧人間になれるのか?

たまに生徒の中でも、人格が優れていて、勉強もできて運動もできる子がいます。
本来勉強もできて、運動もできるって妬み嫉み(ルサンチマン)の対象になると思うんですけれども
きちんと居場所があるんですよね。それは以下の説明でしっくりきました。


人は非があり、欠点があり、未熟であるから、周りの人の心が離れていくのではない。
人は、自分の非を認めず、欠点を認めず、自分には非がない、欠点がないと思い込む時、周りの人の心は離れてゆく。

51ページより引用

つまり、完璧な人間という者はいなくて、自分の非をきちんと認めていることが大切なのです。
そりゃ何でもできるって訳じゃないですよね。きっと彼や彼女もできないことがあるはずです。
それをきちんと自分で認めることが、求心力のある人ということになります。
ついつい周りのせいにしちゃう時ってありますよね。一過性のあるストレスの解消方法だと思うんですが、成長にはつながりません。
まず、自分の非を考えてみて直せるところを直し、その後、環境を是正できるように働きかけるのが大事だと思います。


ショートコント 「真面目な子」

私は教師になって1年目の時に教師として働くのって難しいなって感じていました。
だから職員室に入る前に毎回「ショートコント教師」と心の中で唱えて、教師の仮面を被るように頑張りました。
今となっては、だんだん教師っぽくなってきたな(職業的社会化)と、自分自身でも感じます。
だから、教師としての自分を嫌われても別にどうでもいいというか、それは自分の全部じゃないしって感じがします。
というか、仕事上のオフィシャルな関係なので、そんなに負の感情を向けられても……という気持ちの方が先に来ますが。


我々がめざすべきは、自分の中に幾つもの人格を見出し、育てることであり、それらの人格を、仕事や生活の場面や状況に応じて、適切に切り替える能力を磨いていくことである。

106ページより引用

この時は教師モードの自分、この時は大学時代の友人の自分、みたいにモードを切り替えていくことって本当に大事だと思います。
それが自分では苦のない程度で上手にスイッチングできると、人生を生きやすくなるように思います。


欠点という蓋をするかどうか

昔、女子高で教えてた時に、自分で欠点だと思ったら欠点なんだから、欠点だと思わないようにしてるという話をしたことがあります。
そこでじゃあ私の欠点って何ですかって聞いたら「運動が出来ない」とか「口が悪い」とか言われました。あの教室は私のことを嫌いな生徒が多かったので、すごく盛り上がったのを覚えています。
あの時は感情を抱かないように授業をしていたので、本当に淡々と文法の解説をしていました。
熱を込めて授業をしても批判されてしまうなら荒波を立てないような授業を淡々としようという感じでしたね。
一方で先生のことをしたってくれている生徒もいますよ、そういう人達が損をしないようにしてほしいですとも一部の生徒に言われて本当に難しいなって思いました。
最終的にはやっぱり荒波を立てずにやりました、というか、こなしました。自分を慕ってくれている生徒のために頑張りたい気持ちもあったのですが、あの時は頑張りきれなかったのです。職業人である前に人間ですからね。
人の批判をすると、集団の損になるっていうことに気づいてほしいなと思いました。高三で受験のストレスがあったんだろうとは思うんですがね。



本来、人間に欠点は存在しない。
しばしば、我々は人を好きになれないとき、彼のあの欠点が嫌いだといった言葉を使うが、そもそもこの欠点とは何か。

科学の世界に、この意味を示唆してくれる興味深い言葉がある。
それは腐敗と発酵という言葉である。

発酵も腐敗も微生物が有機物質を分解する性質。
そのうち、人間にとって有益なものを発酵と呼び、有害なものを腐敗と呼ぶ。

この定義を読むと、読者は「科学的客観性」を超えた「人間中心」の主観的な定義に驚くのではないか。

103ページより引用

この文章はとても面白かったです。発酵と腐敗ってとっても人間至上主義の考え方だったんですね。
私たちは常に主観的な物事の見方をしています。別にそれは人間だからいいと思うんですけれども、そこに善とか悪とか好きとか嫌いとかっていうものが入ってくると争いが生まれるというか、決裂が必ず生まれますよね。
主観的に考えてもいいと思うんです。でも、悪とか嫌いとかっていう感情を表に出すのは違うと思うんですけどね。
私はよく「悪口は見せるの話すの呟くな」と伝えています。それができるようになればいいんですが……今の学校の生徒たちはすごく成熟しているので、同様の悩みに直面したことは、ほとんどないです。

世の中は人間中心でもいいと思います。というか、人間なんだから人間中心以外の選択肢を取るっていうことは非常に難しいように思います。ただ、それは常に人間中心でいいというわけではありません。
エゴイスティックでいる時もあるし、周り優先にする時もある。それで心が満たされる人間になっていくっていうのが大事なように思います。
フロイトの自我の話と一緒ですよね。

リバタリアン心理学研究所より
https://libpsy.com/idegosuperego/254/

個人がこれをできるようになれば、社会でもできるようになるんじゃないかって思います。



最後となりますが、過酷な環境にいる時は「私が環境に今まで恵まれてきたから、成長させる機会を神が持たせてくれてるんだな〜」と考えるようにしています。

目の前にその人がいないとき、ひとり、心の中でその人に感謝できるとすれば、それが本当の感謝にほかならない。

自分の中でも感謝している人はたくさんいます。きちんとこれからもお礼を伝えていきたいです。

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