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Cocco/25th anniversary 'II @SHIBUYA LINE CUBE

たくさんの、やわらかな白を纏って
しなやかな身体が
帆を張って前に前に進む船のようで

決して優しいばかりではない現実と
それでも美しい世界を歌う

大きな瞳も、おおきなくちもその豊かな表情も
指先の動きまで鮮明に見える距離だったあの夜

ことばのひとつひとつがまっすぐ届いた。
いつもはシルエットで確認できていたその人が、
一曲ずつとても丁寧に紡いでは、舞うそのひどく美しい姿をこの目で見ることができた。

本当に、Coccoちゃんだった。

ほんとうに彼女はそこにいて、
苦しいくらいにことばが胸に響いてたまらなくて
わたしはもうただただ、肩を震わせて泣くばかりになってしまった。

生きてゆくことに、
何ひとつ嘘なく向き合ってきたような言葉のひとつずつ
「もういいよ」も「わたしを覚えていて」も
全部全部、彼女のことばとして、心として聴こえてくるようで
諦めようとしたこと、諦められないことも
見送ってきたものや人、放たれてきた想いの欠片たちが
その表情と混ざり合い次々に胸に刺さっては解けて、全部がわたしには涙に変わる。

「どうしたって歌は生まれてきてしまうから」

そう語った彼女の紡ぐ言葉が、彼女自身の全身から奏でられる。

どうしてこんなに涙が出るんだろうか。

自らを鼓舞するように肩や腕、指先に一瞬力が入り、
ふっと短く息を吐くその姿にとんでもない集中力と緊張感を感じる。
ひとつひとつの音を全身で確かめて、歌い出し前のブレスと共にぶわっと腕を振り上げた瞬間に変わる空気。
迅る鼓動のように温度を高めていく音の洪水を、華奢な背中に背負って漕ぎ出す力に変えていくみたいだった。

ライティングは後方から射すものが多くて、
今まではその表情をつぶさに確認することはできなかったけれど、
今回はあまりにステージに近かった席のおかげで、
深い色に彩られた曲の合間にも、その表情が垣間見えていて
終始その口元がほころんで、微笑んでいたり、あのにかっとした笑顔だったのがとても印象的だった。

それでも。

わたしたちが想いを寄せる曲を奏でてくれるとき、
わたしたちは当時の自分たちをここに連れてきてしまう。
勝手に「わたしたち」とは綴ったけれども、
わたしは間違わずに必ず、連れてきてしまう。
彼女にあのとき救われていたわたしをここに呼んでは一緒に泣いてしまう。
あのときの涙なのか、そうじゃないのかはわからないけれど、もう全部が一緒くたになってしまって、肩が震えるほど泣いてしまう。
あの頃のわたしは肩を震わせて、今のわたしは抑えたタオルの奥で何度もしゃくりあげてしまう。

この曲を、あの曲を。
うまれてきてしまったその曲たちを生んできたその当時に、あっちゃんは心を引き戻し立ち返りながらわたしたちに届けてくれているのだろうか。
それでいて、こんなにやさしく微笑んでうたってくれているのだろうか。

そう思うと、やさしく笑ってくれるほどにただ泣けてしまう。
ありがとうを言われてばかりだけれど、
ありがとうでしかないのをこんなに泣いてばかりで何も伝えられないのがもどかしいほど。
それほどありがとうばっかりなのに。

幾重にも重ねられたチュールやオーガンジーの裾は
それぞれに自由にはためいてはライトを受けて、そのやわらかなシルエットとともに彼女の帆となっていた。

ふっと息を強く短く吐き、背骨を積み直して、
ぶわっと大きく開いた腕で帆を広げて、
音の海を漕ぎ出でていくようだなと思う時間がたくさんあった。
まぶしくて、まぶしくて美しいその姿は
音の海を波を進みながら、
力強く前を見て、笑顔を携えてうたう。

「わたしは だいじょうぶ」

もう、声をあげてしまいたいぐらいの涙が押し寄せてたまらない。
こんなのどうしろっていうんだ。

だいじょうぶだと、うたっていてくれてありがとう。
ほんとうに楽しそうに舞う姿を見せてくれてありがとう。
大丈夫であるように、その心を分けてくれてありがとう。

大丈夫じゃなかったことも、
大丈夫であるようにと、ここまで重ねてきた時間と思いは何ひとつ当たり前じゃない。
ちゃんとこの背骨となって、血となってこころのひとつになってこの身体を支えてくれているし、またこうして生きていける。

「何もない」と突然目が見えなくなるような夜の、光のような人だった。
穏やかな心地の良い夕暮れ、ぶわっと射した西陽に閉じ込めた心をひん剥かれたような気がした瞬間、
何もかもを今すぐ放り出してしまいたくなるような心を、まるごと抱きしめてくれる音楽ばかりだった。

そうして支えられてきた今までを
まるごと思い返しては昇華してもらったような時間だった。

そんな時間が押し寄せては続く中、
ふと見えた光景があった。

曲の前奏で
小さくぽんぽんと胸を叩く。
ぱくぱくと動いていた口元は何度も繰り返していた、
「大丈夫、大丈夫」と。

その姿を見た瞬間に、
25周年のベストツアー其の一の終盤
彼女のFacebookに綴られた言葉を思い出す。

25周年のベストツアーのリハーサルは、どんなにがんばっても
泣かずに最後まで歌うことができずに終わってしまった。
なぜ泣くのか自分でもわからない。
ただ、歌というのは、もうそこにいない人や物やできごとの
匂いや手触りまで鮮やかによみがえらせたりするとんでもない力を持っている、
とにかくとんでもないものだから、
自分の意思とは別に、あっという間にそういうものに飲み込まれて
胸がぎゅううっとなって、泣きそうになって、それを止めようとすると
喉がぎゅううっと締まって、声が出なくなってしまって
こんなの無理だろうと思った。
「Coccoがずっと泣いているのをお客さんが見守るツアー」
になってしまうと思った。なんてこった
わたしのやるべきは歌うことで、泣くことじゃない。
どうにか歌い切るために、一息もつかずに、いくしかないと思った。
Cocco/Facebookより

ああ、こうしてあっちゃんは
大丈夫であるようにを繰り返して
こうしてここに立ってくれていて
ここで空気を揺らして音を声を、心ごと身体中で届けてくれているんだと
もう目を開けていられないくらいにわたしは泣いた。

そしてあっというまに訪れてしまった終演、
最後の曲を歌い終えた彼女が、
小さく声を漏らして涙をこぼした横顔に
ああもうなんてことだと思った。

メンバーと手を繋いで、最後のご挨拶に前に出てくれた場面では、
繋いだ手を上げたそのあと、
ぺしゃんと座り込んで泣いた彼女の姿に
もう訳がわからないくらいに泣いてしまった。
勿論これを綴っている今もあの姿が鮮明に戻ってきて文字が霞んで仕方がない。

わたしは多分この先一生あの横顔も声も、
あの姿も絶対、絶対忘れられないと思う。

どうしようのない夜も
迎えてしまった朝も
果てがないくらいに晴れた空も
見えないものに見えすぎてしまった心も

大丈夫を繰り返して、
大丈夫であるように、

あの姿を思い返しては前を向ける気がする。

差し伸べた手が空回っても真っ直ぐ歩けるように、
大人になってしまっただけの今も愛せるように。


勿体ないほど溢れてしまうくらいの、
沢山をもらった夜の記憶を、ひとつここに。
何度も、「大丈夫であるように」を繰り返せるように。

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