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カメラロール

2010年、今使っているiPhoneのカメラロールの中の、いちばん古い写真。

ざっと十何年もの凝縮された記憶を閉じ込めるために、いつもわたしはいちばん大きい容量に買い換える。
動画のダウンロードはしないし、然して大きい容量のアプリを使うわけでもないから、
わたしのiPhone容量内訳バーみたいなアレは、ほぼ7割程を写真が占めている。もうここ何年もずっと。

PCにバックアップをとって、iPhone自体のデータからは抜いたりだとか、そんなこともしない。
どんなに容量がかさんでどんなに重たくなっても、ずっと連れて歩きたい写真がある。

今や半生以上を共にしてきた親友が新しくこの世界に迎えてくれたあかちゃんが、
ほら上の子と同じ顔してるね。とか、
何年前の今頃は此処にいたんだね。なんて旅行の記録や記憶とか、
普段の生活の中でそれほど見返す習性はないものの、
こうした会話のときにすっと記憶を呼び覚ましてもらえることが重要で、
ずっとずっと引き連れて歩いている。

そんな中、ロック画面やホーム画面を変更することももう何年もしていなかった昨今に、
iOSのアップデートによって、ロック画面とホーム画面が編集出来るようになった、突然。

ああこれはちょっと楽しみだけど面倒だなと思いつつ、
今まで設定してた画像を漁りにカメラロールをひたすらスワイプする。
13,000枚もあった、2010年からの記憶の片隅。

だいぶ昔に保存した画像だった気がするから、
とりあえず2010年からカメラロールを辿ってみる。

ああ、ずっと髪の毛長かったなとか、
やっぱりマツエクいいよなとか、この時期パンパンやないか!なんてかつての己に頭の中でツッコミを入れながら、
かつての自分や、わたしが見てきたものの歴史を辿る。

写真を始めたころ、ちょうどその親友に第一子が生まれた後で、
本格的に写真を学びたいとカメラの使い方から教えてもらっていたあの時期。
その、世界でいちばん尊いんじゃないかと思う赤子を散々練習台にさせてもらってる記憶の記録ばかりが、これでもか、これでもかと出てくる。

構図も酷ければピンすら合っていないようなものから、
ちょうどいい光が射すものから、

ただ横たわって寝ては泣いていただけの、あの愛のかたまりが、
ちいさいあんよを重ねて正座している、曲線だけのあしのうら。

病院に向かったママを追って泣いたあとの頬に流れたままの大きな涙のしずく。

一緒に過ごした時間が確かにこのカメラロールには溢れていて、堪らずわたしは涙を止められなくなってしまう。

時折じっと、大きな黒い、曇りなき眼でこちらを見つめていたり、あの元気な泣き声が聴こえてくるんじゃないかってくらい天を仰いで泣いている写真。
そして決まって、ひと泣きし終えたあとの、
これでもかってくらい目に涙をたくさん溜めた、ちょっとへの字口のあの顔が、一緒に過ごした日々の分だけいまもう写されていた。



「この目がシャッターだったらいいのに」


そう名の付いたコミュニティが、昔にmixiにあった。

勿論見つけた瞬間に加入した。
もう今はアカウントすら残っていないけど、あのフレーズはずっとすきな言葉で。

もうあのコミュニティでどんな写真をたまに投稿して、投稿されたどんな写真に心撃たれていたのかはもう何ひとつ思い出せないけれど、

こうして散々スクロールしてもしても辿れない十数年分のこのカメラロールは、
紛れもなくわたしの目をシャッターとした世界だった。

今はもう、ロンパースのぱちんぱちんを外してオムツを替えるあの時間は無いし、
やたらに「あかちゃんじゃない」を繰り返してるのに、肩にぱちんぱちんの付いた半赤ちゃんな服を着たあの彼は目の前にはいない。

今はもう随分と逢えていないけど、あのときの事も、あの時のことも、なにひとつ忘れたくない。
ひとつも忘れたくないし、忘れられたくない。
わたしがいつか、自分の子を抱く日が来たとしても、
きっとずっと想い出すのは貰った記憶ばかりで、
それでもきっと、少しずつその画は朧げになっていくんだろう。

だから、いつでも思い出させてもらえるように、
いつでもあのこを。あのこたちの今を願う片隅で、わたしは一緒に過ごさせてもらった時間と記憶を持ち歩きたい。
いつか、またこのカメラロールにあのいとおしい姿を収められることを願いながら。

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