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だいじょうぶの少し先
なんてことのない言葉の
上澄みだけを掬って食べて、
それだけで腹が膨れたらいいのに
なんてことのない言葉を分解して
隠れてもいないものを勝手に探して食べて、
渋さで喉の奥を痺れさせている。
わたしはわたしのことを
あまりすきじゃないけど、
きみをすきなわたしと
きみが見つけてくれたわたしのことは
ひどく大切だと思っている。
普遍的なものなんて、何もないかもしれない。
気持ちさえも変わってしまうかもしれない。
変わってなくても、変わって見えてしまうかもしれない。
だけど。
この世界が大切なのは、
きみがいるからだって
何よりまずきみが生きてる世界だからだって
そう何度叫んでも
信じてはくれないんだろうな。
泣けるほど笑えることが
これから何度だってあるよ。
その「だいじょうぶ」を、ちっとも信じられないとわたしの中のわたしが言う。
何で証明できるか
頷いてくれるのかを
ずっとずっと、探している。
これを書き連ねた2020年7月のわたしが想っていたきみの姿を浮かべている、2022年9月のわたし。
いつもそうなのかもしれないけど、勝手に不安なことが募って何か己を頷かせる言葉を捻り出すことで前を向きたかったんだろうか。
わたしがなりたいわたしは、大切な人に恥ずかしくなく胸を張れる生き方をしている人間である。ということはもうここ十数年の目標というか指針であって、何か思考を歪めてしまいたくなるときに決まって自らにかけた呪いのように巻き付いてきては奮起させてくれるスローガンだ。
大事な人がたった1人でしか泣かないときに、わたしは少し離れた場所で何もしてあげられない。
かける言葉を探せたときにも、それがちゃんとその先意味と力を持ち合わせてくれるかどうかまでは自信が持てない。
駆けつけて、ただ話を聞いて、横で勝手に少し泣いたりしながら抱きしめるしかなくたって、あの時間を飛び越えて守護神のように盾になれる方法が物理的には見つけられないとき、
世界中でいちばん味方でいると、いつだって心をそばに置いて支える、そして同じく頼りにしてるって伝えるしかないことが歯痒くてもどかしくて、そんな時期の話だったこと。
言葉を分解してしまうのは、言葉の分離を感じるからで、同じ言葉で同じシチュエーションでも受け取り方によってそれは大きく姿かたちを変えてしまうこともあるってことが怖いから。
肋を観音開きにして、ほらわたしのこころの特性はこうですよとは誰もが示せない分、
耳から目から入る言葉は補足文が不可欠なんだと思う。そんなつもりじゃない、発しても受けてもそんなつもりじゃなかった場面は悲しいから、そうならないためにも、他の情報が必要なんだ。
結果話が周り巡りすぎて、「結局何が言いたかったんだっけ…」なんてなることもしばしば。
だけどそれでいいし、それがいい。わたしの目だけでは然して美しくもないこの世界に、色がつくのはきみが此処に居るからであって、そんなきみがだいじょうぶであるように、わたしはずっと言葉を紡ぎたいと、そうこころから願う。
きみのだいじょうぶは、わたしのだいじょうぶで、
何の確信も悲しいかな無いなかで積み上げたわたしたちのだいじょうぶは、それだけでわたしたちの肋をやさしく解いては護ってくれる。
そんなお守り代わりの、だいじょうぶ。
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