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帰り道も時計も要らない時間。

シューズの紐をきゅっ、と結んで
イヤホンをセットして。
地面を蹴り出した瞬間のその時間から、今の今まで頭をぐるぐる巡っていた想いごとはすうっと消えていってしまう。

どう身体を動かして、どう呼吸するかを、
両耳から後頭部に響く音楽に時折意識を傾けながら考える。
頭の位置や蹴り出し方、姿勢や腕の振り方。
どう動かせばどこが連動するのかを意識するだけで、
3、4kmあたりまではただ呼吸が上がって苦しい時間も少し楽しくなる。
少しペースを上げたり落としたりしながら、
わたしはわたしの足で、すきな方向へ思いのままに身体を運ぶ。


田舎生まれの癖に運転免許を持ち合わせていないわたしには、何駅分も走って移動できることが今だにいつまでも新鮮だ。

遠くへ行きたくて、見たことのない景色を感じたくて、気付けば1時間も走っている時間が増えた。
風の香りや、そこらじゅうで芽吹く花や蕾で季節を感じる。
空気の含む湿度でも、肌を撫でていく温度でも。

「この目がシャッターだったらいいのに」
そう感じるような木漏れ日のきれいな景色や、
思わず立ちどまってしまうくらい見事に彩られた庭先に何度も何度も出会う。
いっそカメラを背負って走れたらいちばんいいんだけどな。そう思う日が何度も何度もある。


何かもやもやしてたまらない澱みに気付いたらすっぽりはまってしまっているような休日に、
あてもなくカメラを携えて出掛けることがよくあった。

ふっ、っと心を動かされる景色に偶然出逢って
単焦点50mmにその場面を切り取る。
夢中でシャッターを切り終えて、
モニターで画像を確認するころには不思議と薄れているそのもやもや。
絞りを開放して、少し息を止めてシャッターを切るその間に、すこしずつ何かが削り取られていくように薄まっていくのかもしれない。

何かを表現したいだとか、
誰かに何かを訴えたいわけではないんだ、決して。
だからわたしの写真欲はいつも薄い。
ただ。
偶然に出逢えた、少し心の隙間へ射し込んだような光に影をつけて、その場所に一時閉じ込めてしまいたい。
その時間をそっと連れて帰りたいだけ。
はじまりや途中でそのおわりを、ちゃんと見て確かめて。
そして残しておきたいだけ。

撮りながら、走りながら、何を見つめたいのかと考えてみると
いつも最後は自分に還ってくる。
日々のことやこれからのこと、
残るものや残らないもの、残せないもの。
こう在りたい自分や、そう在れない自分のこと。
そして心を動かす、想うひとのこと。

思えば歌うことだってそうだった。
路上で下手なギターを弾きながら歌うときだって、
こうしてまとまらない言葉を紡ぐときだって、
その時々によって、スケルトンだったり闇鍋のようになるわたしの内側をあちこち掻き回してみては、
これはここに。これはここに、と整理したい気持ちが為す術なのだと思う。

呼吸を整えること、身体の動かし方だけに集中して、
すきなように曲がったり坂を登ったり下ったり。
いきなり出逢う見上げた坂も、心に引っ掛かるなら登ってみる。
川の流れをこのまま眺めていたかったら延々と川沿いを走ってみる。
次第に軋んでくる身体にもう少しもう少しと言い聞かせて、途端に止まりたくなるまで走ってみる。

息が切れれば切れるほど、脚が上がらなくなればなるほどに
うわっと見上げた空は高くて、風の匂いは季節の香りを連れていることに気付く。
重たくなる脚と反比例して少しずつ軽くなる身体を前へ前へと運ぶとき、この目の前に紗は掛からない。

前へ、前へと出来たら進みたいんだ、きっと。
そのためにかき混ぜたり、振り切ったり、立ち止まったり迂回したり。

ルールはひとつ、
地図と時計をわすれてしまうこと。
帰り道も時間もぜんぶ忘れてしまって、
赴くように感じる時間をただ走る。

何かを続けるために、何かを手放すために
何かを思い出すために、わたしは走りたい。

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