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こころをうごかすもの

自分の中の何かを解放するために、ひとつのことに固執する性分なんだと思う。

いつまでも上手く抑えられないバレーコードとカポタストを用いた簡易コードにどうにか助けられつつも、
消して上手くないギターを弾きながら、心を奪われたアーティスト達の曲を思いのままに歌うとき、
己から出た訳じゃ無い言葉たちが不思議とわたしの感情そのままになったかのように、
終わらない霧から抜け出せた感覚になった。


誰が聴いてくれなくてもいいと歌いながら過ごす夜を手放し出した頃、ふと心に留まる景色を想いのままに写す術を手に入れた。
夢中でシャッターを切ってはファインダーに映ったそれが思う形に写されていた瞬間、上手く飲み込めずに喉の奥にくぐもっていた醜い塊がすうっと溶けていくような気がした。

わたしでしか歌えない歌なんかこの世界にはひとつもないし、わたしでしか撮れない写真なんかどの景色に出逢っても1枚たりともないけれど、
わたしがわたしを昇華できる術を見つけたおかげで、
どうにか根腐れず自分で自分を呼び戻す時間を探せた。


いつも、何かになりたかった。
何かを表現できる人になりたかった。
だけど、少し足りないくらいじゃなくて、いつも全然足りなかった。
ほとばしる情熱も、突き進む決意も、かなぐり捨てる勇気も、積み上げる根性もなにもなかった。
だから、何者にもなれないわたしがいつもいた。

何か大きい理由があったわけじゃないけれど、歌うことを少しずつ諦めては、カメラに触れる日も少なくなってた頃、自分で自分が見えなくなることが多くなった。

ほら、こうして自分を奮い立たせてきたじゃないか。
そう思えた術達を頼りにできなくなってきたとき、塞ぎ込むような時間が増えて、いよいよ本当にわたしはわたしをとてもすきにはなれなくなってきて。

いや、そうじゃないな。
元々すきじゃないから何か己を認められるようなことがほしくて、できることが増えるたびに少しずつ自信を与えられるような気になってたんだ。

考えても仕方のないことはたくさんあって、それでもみんなちゃんと生活をしているのに、あのときのわたしにあまりそれはなかった。
前が向けなくて、目覚めている時間は気付けばぬるっと溶けているような日々。
ぬるぬると溶けた時間は何も残さず、わたしも何も求めてなかった。

多分、あの時期だった。
頭をクリアにしたくて、唐突にランニングを始めたのは。
昔から短距離走はすきだったけど長距離走はだいっきらいだったし、溶かした時間の分身体は重かったのに。
ただもやもやと考える時間を一旦ぶっ飛ばしてしまいたくて、適当に走り出してみた。

走り出しからずっと苦しい、大してスピードも出せないし、簡単に足を止めてしまいたくなる、やだもうつらい。誰が走るなんて言い出したんだ。ああ苦しい。


初回は確か30分も走ってなかったんじゃないだろうか。
自分の呼吸の音がうるさくて、心臓の鳴る音が聴こえるような感覚がしだしたころ、
何故か少し頭だけがクリアになってきて、不意に自分の中にダブる感覚を見つけた。

ああ、そうだ。これ剣道の試合のときと似てるんだ。

身体はもう乳酸まみれなんじゃないかと思える程の疲労感の中、鼓動は速いし汗も止まらない。
だけど周りから聴こえる音のボリュームが少し下がって聴こえて、自分の鼓動の音が首の少し上、後頭部で鳴ってるような感覚。
だけどやけに頭は冷えていて、眼に映る目の前の相手の一挙手一投足だけがしっかり視えているあの感じ。
いや、監督の恐ろしい声もちゃんと聴こえてたや。

そんな懐かしい中学生の部活のときに味わってた感覚と似たものを感じるようになったとき、
慣れない走りを続けながら、わたしの中は一旦がらんどうになった気がした。

渦を巻いたり、散らかったり、降り注いだり、打ち付けたりしていた感情たちの誰ひとりとして残らず、一瞬ふっといなくなった気がした。
それくらい、一旦、放たれたこころが在った。

勿論そんな感覚は走ってる間ずっと続く訳じゃないから、その数分後にはもう案外限界を感じてはあっさり足を止めてしまったりするんだけども。

それでもあの感覚が忘れられなくて、そこから度々走るようになった。少しずつ距離を伸ばしてみたり、どれくらいのペースだったらなるべく長くて止まらないで走れるのか調整してみたりしながら。

今までわたしが見つけてきた、わたしを守る術は
感情を吐き出すものだったり、形を残すものだったり、思考を整理したりするものだったけれど、
これはそのどれとも全然違うからこそ、なおさら惹かれていくものが強かったのかもしれない。

何も考えずにただただあたまをからっぽにして
吸って吐いて、小刻みに機械的に呼吸を繰り返し、同じ動きでただ前へと足を運ぶ。
一歩ずつ一歩ずつ前に、自分の意志で自分の身体を運んでいく。感覚で道を選ぶ。そしてちゃんと元いた場所へ帰ってくる。
季節に合わせて、気温に合わせて異なる香りをかぐ。乾いた風も湿った風も、肌で喉で感じる。
ランダムでシャッフルされるすきな音楽を聴きながら、言葉をなぞる。流れた曲のBPMは自然と歩幅を大きくさせる。
すれ違う人や、駆け抜ける街の景色のひとつひとつを、一瞬ちゃんと焼き付ける。かわいい犬に割とたくさん出逢う。知らない道を、車のように青看板を見ながらルートを決めていく。
イヤフォンの向こう側にそっと聴こえる、川や街の音を聴く。
そして自分の内側から鳴る音を聴く。呼吸の音、鼓動、時折深く細い呼吸で胸を落ち着けながら。
手を脚を、肩を、腰を、背中を、どう動かすかどう意識するかで筋肉の繋がりを感じてみる。
ただ、まっすぐに足元の少し先から前を見る。

ここまで書き出してみたら、案外頭はからっぽにはなっていないのかもしれない。笑

身体を運んでいく距離が長くなればなるほど、思考はクリアになっていく気がして
どんどん長い距離を走ってみたくなるようになってきたけれど、誘われるマラソン大会にまるで興味を持てないのは、
距離や順位を測る達成感よりも、自分をみつめるこの時間の方が大切だからなんだと思う。

走ってると、ほんとにいい景色によく出逢うけど
残念ながらカメラを背負ってはいないことがいつもちょっとかなしい。
今、此処に射したこの美しい光や、映し出された物言わぬ影を一枚の画角に閉じ込められたらいいのにな。

そう思うとき、わたしは自分の中に
すきなもの離れられないもののループを感じて、
なんだかたまらなく、しあわせな気持ちになる。

何者かになりたいわたしはずっといて、何者にもなれないわたしもずっといる。
すきなものを手放さずに心からあいして、失くしはせずにたまに増やしたりしながら身に纏う。
わたしは今、そんなわたしを割ときらいじゃない。

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