映る景色に写すもの
目の前に広がる景色より、それを写し込んだ景色の方がすきなのは何故なんだろう。
起き抜けのその瞬間から、ちょっと口元を綻ばせつつも諸手を挙げて降参してしまいたくなるような晴れすぎた空は、
そのまま狭いベランダに裸足で降り出て眺めるよりも
どこかの誰かがたくさん仕舞われているような高層ビルに貼り付けられているガラス面に写されているほうがすきだった、いつからかずっと。
近くに見えていたから割と近いはず、と思って歩いて向かったけどなかなか辿り着けなかった冬の東京タワーも、
首が折れそうになりながらその足元から見上げるよりも
対面にあるもう誰も閉じ込めちゃいないビルの真っ黒いガラスに映し出されているほうがすき。
どちゃどちゃと降った雨上がり
嫌味のないくらい晴れあがった時間。
そこらじゅうにできた大きな大きな水たまりを探しては歩く。
こんなに気持ちよく晴れたけど、
「あぁ、きれいだな」と
気を抜いたら泣ける綺麗さを探すのは決まって地べただったりする。
水面に映る美しい世界は風が無いほどにミラーと化するけど、少し凪いだ風にゆらゆら細かく映る世界も、それはまたそれで趣があるように見えたり。
鏡よ鏡、この世でいちばん大事なものはなあに?
なあ。わたしが大切で仕方ないものを、ちゃんと大切に護って愛でていられているのだろうか。
大切なんて口先で耳障りのいい言葉を並べておいて、本当は普段頭の片隅にちらっと在るくらいの遠い処へ仕舞っているだけなんじゃないか。
そう自身に思うことは割とたくさんあって、そんな自分をふと見つめることになるのは、決まって列挙してきた愛おしい少しせつないような香りのする写り込んだ世界に出逢うときだ。
木々が風に揺らされて、少し風が香るのを肌で感じるときと、
ベランダの先にあるユズリハが綺麗に西陽を受けて、寝室のレースカーテンに細い枝や葉のひとつひとつの色濃い影を落とす薄橙を滲ませたこの部屋を眺めるとき。
景色の描写にありありと出まくっているように、映されたものへ、割といつもこころは大きく動く。
なんでだろう。と自らの思考を紐解きながら考えてみたけど、これは多分写真を初めてから強まった気持ちなのかもしれないな。
光と影を探すことがいつからか癖になっていて、虫のように明るい場所や光射す場所へ向かいたがるけど、陰影のコントラストがはっきりしているものがすきだから、いつも影を探している。
影と出方には、射す光の強さだったり硬さが影響してくるのもすきなポイントで、時間帯や時間、光を受けるものの質感によってもそのニュアンスが異なるのもまた魅力的で。
…と、2020年につらつら綴ったものを久し振りに掘り起こしては最近の記憶と想いを重ねて連ねてみた2022年の初秋。
どうにかがんばってはみたものの、まとめるにはちょっと限界を感じてきたから唐突に終わってみたりしようかな。
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