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もち

 最近、本当にどうでも良いなあと思う事が増えた。
 どうでも良いという例であげると、ある時から一切嫉妬心が湧かなくなった。どんなに同年代や歳下の人で、展示だとか公募結果だとかネット記事など見ても、「良い作品だな〜」とか「頭いいな〜」とか、そんな感想しか出なくなってしまった。たまに「同世代のあのアーティストはこんな事をしてこんな環境で制作している」という助言めいた事を言ってくれる親切な人がいるけれど、それはそのアーティストの努力と星の巡りが一致した結果にすぎない。他人は他人、私は私なので、私には私の星がある。人には人の乳酸菌である。
 元々アーティストなんていうものになってしまったのは、世の中にあるもので自分の本当に欲しいものが無かったからである。どんなに素晴らしい作品に出会い「素晴らしい!」「面白い!」と思っても、心のどこかで満足していないのがわかる。お店に行っても同じ事で、自分の本当に欲しいものは無く、それに近いと思われるものを妥協して購入するしかないのだ。

 コロナ禍になり、若い俳優さんや著名な方が自ら命を絶つというニュースが舞い込む中、やはり私も「終活しよう」と思い立った。人間いつ何時死ぬかわからないし、自殺未遂の人に話を聞いた事があるが、自殺というものは何かに導かれるものの様に思った。魔がさすという言葉があるが、言葉通り“ま”に入ってしまう時があるようだ。

 私にも“ま”が来る予感がしたのか?ただ単純に家にいる時間が増えたので身軽になりたくなっただけなのか?わかりかねるが、今まで「使うかも」と取っておいていた自分の作品やそのアーカイブ等を処分する事にした。

 処分すると言っても分別やらなんやらで、ゴミ袋に入れて出せば良いというわけでは無いし、一度に出して良いゴミの量というのもある。一先ずいるか要らないかで分け、過去の自分の頭の中を見ながら「混乱しているな」と思う。物を処分していく中、やはり制作も影響するもので、新作は形がない。

 何か公募に出そうかな?と思ったけども、かたちも無いし、その他理由で募集要項の規定に合わない。誰かに送ってしまうか?とも思う。作品というのは作者の手から離れなければならない。私と一緒に居続けてはならない。一人歩きさせないといけない、と思う。

 作品は作者不在であろうとも勝手に増殖するものだと思う。増殖できない作品は作品として成立できていないのではないか?とも思う。私の新作は今も増殖している。観客もいないのに。作者もこれから居なくなったとしても、この作品は増殖するのだろうな、と思うのであるが、作者はしばらくは生きているのでその後を拝めそうには無い。