めんつゆ

 小蝿と競えるくらい麺つゆが好きかもしれない。小蝿に失礼か。ごめんなさい。

 黒いのも白いのも大好きで、コロナ禍になり以前より、さらに多く飲用する様になったと思う。そもそも飲用する物なのかは知らない。麺つゆを薄めに希釈して、乾燥わかめと生姜チューブを入れる。それをスープにして飲んでいる。美味しいなあ。塩分取りすぎかもしれない。

 コロナ禍になってから、なぜか小麦粉を食べると手足が腫れたりする様になってしまったため、麺類を入れて食べるわけにはいかない。鍋焼きうどんが大好きなのだが…困ったものだ。大手うどんチェーンも大好きである。(おうどんとお蕎麦どちらを取るかと言われるとお蕎麦なのだけど…)というわけで、麺は入れられない。でも私の身体の中から麺つゆ成分が消えると、身体の中の麺つゆメーターがアラームを鳴らす。なので麺つゆは常備品だ。

 ただ麺つゆにも色々ある。色々あるというのは材料の醤油で随分味が変わるし、江戸時代は味噌味ベースだったという文言を博物館で見たことがある。昔住んでいた場所のお醤油は大変甘く、お砂糖を入れなくても煮物が作れるくらい甘かった。また別のところは真っ黒だった。私の舌は関東の味で慣れ親しんでいたため、どちらも衝撃だった。

 アートにおいて衝撃を受けた作品は何か?と考えてみた事がある。尊敬すべきアーティストは山の様にいるし、これから素晴らしいアーティストの作品を観る機会があるに違いないと私は思っている。(もちろん、一番楽しみなのは自分の作品だけれど!)
 その中で、印象強くまた度々台所に立つたびに思い出す作品がある。束芋の《にっぽんの台所》(1999)だ。この作品はビデオ・インスタレーション作品で、私は学生時代この作品を学校の教室で観た。束芋氏の作品は、展覧会会場で観るのがマストである。アーティストが制作した、小部屋の様な空間が設置され、その中に入り込んで映像作品を鑑賞する。これはどこかで聞いた噂だが、彼女の作品を現場で鑑賞した観客の中には体調不良を訴える人もいるそうだ。大きな装置と言ってもいいかもしれない。映像作品は手書きのアニメーションで作られており、渋い茶色がベースの中に青や朱色が映える浮世絵のようなカラーリングである。そして、内容は主婦が人間の脳を調理したり、指が切れたり、高校生が降ってくるといった、少々グロテスクな描写が淡々と日常の動作の中に組み込まれている。私は、《にっぽんの台所》を展示室でアーティストの制作した装置の中で鑑賞したいと思う反面、学校の教室のスクリーンで観てよかったと、思っている面もある。ある一種のトラウマとも言っていいかもしれないのだが、あの作品を観てから包丁を持つたび、あの作品がフラッシュバックする。もともと先端恐怖症の気がある私は、包丁が怖い(包丁を洗いながら不吉なイメージが浮かんでしまうほど)。なので好き嫌いで言うと、苦手の部類に入る作品である。だが私は、束芋の展示が行ける範囲であると観に行ってしまう。見に行かなくてはと思ってしまうのだ。

 修士論文を書く際に、物語を扱うアーティストとして、束芋のことを調べようかと思ったのだが、あの作品群をもう一度鑑賞する勇気が出ず、諦めてしまった。2019年に銀座のポーラミュージアムアネックスにて開催された『透明な歪み』展では、展示室全てが誰かの部屋のようになっており、アンティークの家具、アーティスト初の試みだという油彩作品、映像作品が設置されていた。以下、展覧会詳細である。

束芋は2016年シアトル美術館で、美術館の所蔵品とそれを基に制作した映像インスタレーション作品を一緒に展示する企画を行いました。その後、それらの作品は別の展覧会でも展示され、オリジナルと自身の作品を切り離して展示したことをきっかけに、作品とオリジナルを分けることで、オリジナルに囚われない自由さや可能性が作品に出てくるのではないかと考えるようになりました。
本展では、新作アニメーション作品と、自身初の試みである油絵を含む、約10点を展示予定です。
作品には全て原作が存在しますが、それはあえて公開せず、鑑賞者は自由な発想で各々違った角度で見ることを楽しんでいただければ幸いです。(ポーラ ミュージアム アネックスのHP、過去の展覧会詳細 https://www.po-holdings.co.jp/m-annex/exhibition/archive/detail_201904.html から抜粋)

 展示室内は写真撮影が禁止されていたため、私自身記録写真は持っていない。最初の部屋が古い茶色のタンス、絨毯があって、その随所に小作の油彩が壁にかけられたり、寄りかかっていたりしたと思う。絵画は油絵具のドロドロ重たい気持ち悪さだけ覚えている。少し奥に進むとカラスの出てくるアニメーションの映像作品があり、そこから左に歩いて行くと、奥に展示されている、カラスとはまた別の映像作品と似たような窄まった空間に進まされるシステムだった。まるで映像作品に没入し、帰って来られない気持ちにさせられた。いつも大きな窓から美しく自然光が差し込むポーラミュージアムアネックスの展示室が、どよんと重苦しく、酸素が薄い展示室へと変貌していた様だった。あの気持ち悪さは、江戸川乱歩の《芋虫》を読んだ時の読後感に似ていて、胃液が上がってくるのを感じた。

 以前、横浜美術館20周年記念で開催された『束芋 断面の世代』展のインタビューにて、束芋自身が自作について話している。インタビューの中で、映像を作る際は、手は手、髪は髪、とバラバラに描き、後で行き当たりばったりで組み上げるという。また手描きのアナログなものをパソコン上で一度壊し意図的に自分では組み上げられないイメージを作り上げていると述べている。

束芋:制作をする上で、コンピューターは必要になってくるんですが、アナログ的な使い方からは離れたくない。「団塊の世代」くらいの方々が、若い頃イマジネーションを広げるのにドラッグに頼っていた人がいるように、私はドラッグをコンピューターに置き換えて、自分の世界をどこまで広げられるのか、実験している部分があります。できあがったルールを自分の意志ではなく、コンピューターによって壊す。それによって、頭の中では絶対に組み合わせられないイメージを提示することができるんです。今回の展示作品に、足の親指から花が咲くという映像が出てくるのですが、その作品にしても、自分の想像の中だけではつくれなかった部分ばかりです。花は花で描き、足は足で筋肉や骨を緻密に描いて、コンピューターの画面上でさまざまな組み合わせ方をじゃんじゃん出しながら作っていくことで可能になる表現もあるのです。("「断面の世代」の作家 束芋インタビュー」2009/10/27"
https://www.cinra.net/interview/2009/10/27/000000.phpより抜粋)

 こうやって、少し調べただけでもこれだけ興味深いアーティストである。コロナ禍で、自宅にいる時間が増えた今だからこそ、研究しようかなと…心は動くのだが、やっぱり作品が怖い。(私の作品も怖いけれど、あれはポーを引用するから怖いだけなので、本質的に怖くないと思う) 

 実は昔、一度束芋に憧れて、アナログの映像作品を作ったことがあるのだが、膨大すぎる作業量に私は完全に参ってしまい、それ以降アニメーション作品を作るアーティストには絶対に頭が上がらない。

 今、他人のために作っているおうどんの麺つゆに映り込む自分を見ながら、あの時の茶色のねっとりとした暗い部屋に飛んでみる。

束芋に言わせると、「美術は生活臭くてリアルなもの」だという。
「デザイナーはエッジでかっこいい存在。未来を切り拓くイメージがあります。一方で美術家は、鑑賞者に夢を見せるのではなく、"見過ごされた現実"に目を向かせる存在かな、と思います。美術のエリートではない私の作品を美術に興味を持たなかった人たちも面白がって見てくれるのはありがたいことです。"美術への入口"となる存在になれたらうれしいですね」「パイオニアの突破力 現代美術家・束芋 (”普通であること」の先にある『新しい表現』2018年6月号”https://www.projectdesign.jp/201806/pioneer/005003.phpより抜粋)

束芋の作品を見ることで、私は生活の中で彼女の作り出すイメージを一枚のレイヤーとして見続けていると言ってもいいのかもしれない。