つぶやき

 きっと僕はまだまだ生物としては死ねないのだろうけれど、僕は日々絶えることなく死んでいる。
 僕は不死身でも何でもないけれど、僕という意識は絶えず変化して過去の自分を殺し続けている。
 嬉しかった僕は緊張した僕に、苦しい僕は幸せな僕に、恋した僕は憎しみに焦がれる僕に、楽しく愉快にそれでいて静かに殺されてきた。それはこれからも変わらないし、変える必要のないことだろう。

 SNS投稿用に百四十字に収めるつもりがオーバーしてしまった。
 まあ、いっか。なんだか今日は語りたい日だから。
 誰かに見せられるかはわからないけれど、きっと気晴らしくらいにはなるだろうから。
 

 最初の文章は『人は死ぬ、しかし死は敗北ではない』という誰かの言葉——調べれば出てくるが、気分がいいのでその作業はあなたに任せる——を考えながら書いていた。
『死は敗北ではない』という言葉に対して、私の大好きな人はその理由を物語に託した。

 人は一つの物語であり、子供にその物語を残すことで人は自分を遺すことが出来る。
 私の大好きな人(流石に長いので以下は彼と称する)の物語は——思想と嗜好と描いた世界は——確実に私の中で生きている。だから彼は死しても敗北することはないだろう。例え僕が、僕と同じく彼の小説を読んだ人が死んでしまったとしても、彼の作品は紙の本という耐久性によって守られるに違いない。紙の本の孤独の耐久値は高いのだから。

 話が逸れた。僕の文章の話に戻そう。
 前述のように、死とは身体の絶命のみを指す訳ではないと今の僕は感じている。誰かの歌に感動した昨日の僕は履修組みに忙殺された僕に搔き消されているし、忙殺されていた僕は気分よくキーボードを叩く僕へと転換している。
 感情や思想は感覚を伴うことで完全になると思っている僕は、その感覚を喪失することと死することはどこか似ているのではないだろうかと考える。感覚のない感情や思想と文字列はほとんど同じで、いつかは埃を被って理解されなくなる。

 説明が下手だとキーボードから手を離そうとしている僕も明日には死んでしまうし、明日に生きる僕もきっとすぐに死んでしまう。だけど、こうして文章として言葉として残すことで今の僕は生き続けることが出来るのではないだろうか。

 僕の言葉が誰かの中で生きることは難しくても、今の僕を言葉で延命することくらいは叶うかもしれない。今の僕を、断続的な一片である僕を不正確であっても残せるかもしれない。

 しかしてこんなエッセイもどきでは本当にただの延命にしかならない。
 いつか誰かの中で、あなたの中で生きるために物語を残そう。
 いずれ死ぬ僕が敗北しないような物語を、いつかきっと書こう。

 僕は不死身ではないけれど、物語の中ならば生き続けられるかもしれないから。

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