2 STEP SOUL 16:番外編 ブルース・パーティについて
資料として買ってみたロイド・ブラッドリーの著書"Sounds Like London"を読んで、あることに気付いたので今回はそれについて訂正を少し...今回は2ステップに関して直接の話はほとんどありません。
Lloyd Bradley"Sounds Like London"(Serpent's Tail 2013)
副題にもあるように、この本は1930年ごろから、本が出版された2010年代の前半までおよそ100年間のロンドンでのブラック・ミュージックの流行の変遷を追ったもの。'50~'60年代に活躍したカリプソニアンのロード・キチナーから2010年代のディジー・ラスカルやタイニー・テンパーまで、多数のミュージシャンや関係者への取材に基づいて書かれています。
各章は取り上げるジャンル別&年代順に並んでいて、カリプソ~スティール・ドラム、モダン・ジャズ、アフリカン、ロック~ファンク、ラヴァーズ・ロック、ジャズ・ファンク、レア・グルーヴ、ジャングル、グライム等多彩。その中でも私が気になったのはラヴァーズ・ロックとレア・グルーヴ~クラブ・ミュージックについての章でした。残念ながらツー・ステップ・ソウルに関して直接言及している箇所はありませんでしたが、そこに繋がる部分がいくつかありました。
今回取り上げたいのは、その中でも「ブルース・パーティ」についてのこと。
一回めの投稿で、ラヴァーズ・ロックの流行は'80年代半ばでいったん落ち着いて、その頃からソウル系の曲をかける頻度が徐々に上がっていき、それを当初はブルース・パーティと呼ばれていた、と書きましたが、本書を読むとどうも微妙に違っていることに気が付いたのです。
これを書いた時は、ラヴァーズ・ロックはあくまで「レゲエ」の範疇に入る音楽であって、それに対してアメリカのソウル・ミュージックを基本としているパーティだから、広義のUS産ブラック・ミュージックとして「ブルース」という表現が使われるようになった、というニュアンスを言外に含ませたつもりだったのですが、「ブルース・パーティ」もしくは「ブルース・ダンス」というものはもっとずっと以前、遡れば'50年代から存在していたようなのです。
その語源に関して明確な注釈がないので推測で書き進めていますが、'50年代にロンドンにやって来た西インド諸島からの移民たち(ジャマイカ系も含む)が当初好んで聴いていたのはリズム&ブルースやジャズ、そしてカリプソなど。だが彼らはまだ差別のため気軽にクラブ等に出入りすることが出来ず、それでも週末などに音楽を楽しみたい連中は個人の住宅や空き家に集まってパーティを行った、そういったハウス・パーティのことを「ブルース・パーティ」「ブルース・ダンス」と呼ぶようになり、徐々にロンドンのカリビアン・コミュニティ内では一般的な言葉になっていった、ということのようです。
'60年代にスカがジャマイカから入ってきてミリーの"My Boy Lollipop"やプリンス・バスターの"Al Capone"がヒットすると、スカはロンドンの黒人たちの間でも爆発的に流行、それまでR&Bやジャズが流れていたパーティでもジャマイカの音楽が主流になっていきます。'68年にはジャマイカ産のレコードをライセンスしてリリースする専門のレーベル、トロージャンが設立され、流通面でも状況が好転。こういった流れでイギリスのカリブ系住民か好む音楽=レゲエという図式が出来上がっていき、ブルース・パーティでかかるものはレゲエに固まっていくのでした。そしてそれは'80年代半ばにはラヴァーズ・ロックから(一時的に)アメリカ産R&Bが流れるパーティになり、それが冒頭のツー・ステップ・ソウルへと繋がっていくわけですが...
これで「ブルース・パーティ(本書の後半ではブルース・ダンスと書かれていることが多くなっています-イメージとしてはより規模が小さい個人の自宅でのパーティという感じでしょうか)」というワードが気になったので、その言葉について他の資料も調べてみることにしました。
まずはブラッドリーの前著「ベース・カルチャー」を購入。こちらは邦訳が出ているので比較的気楽に読むことが出来ました。
ロイド・ブラッドリー"ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック"(シンコー・ミュージック 2008)
この本はメインで扱っているのがあくまでジャマイカでの音楽の話なので、イギリスでの事情に触れている部分を拾い読みしただけですが、引用すると「黒人のコミュニティで深夜に行われるブルーズ・ダンスは、口伝えやレコード店、他のダンスで配られるフライヤーで宣伝されていて、1970年代の英国においては、限りなくアンダーグラウンドなものだった。」「当然、サウンドシステムのダンス、ブルーズ・パーティー、ディスコ、カリブ系のお祭りは頻繁に(そして容易に)警察のターゲットになった。」といった具合。
後のほうの引用は、'74年にデニス・ボーヴェルがロンドンのクラブでDJを行っていたところ、盛り上がりが最高潮のところで警官たちの取り締まりにあい、パーティが台無しになったという話から展開する部分なのですが、そのボーヴェルがブラックベアード名義でリリースしたダブ・アルバム"I Wah Dub"のライナーノーツ(こちらも担当はブラッドリー)にも、"by releasing 『I Wah Dub』under the name Blackbeard he's signalling a recreation of that smokey,sweaty,sensuous world of late night blues dances." "The dubs on this set have been arranged to simulate that blues party vibe,"という記述があります。「スモーキー、スウェッティ、センシュアス」と形容詞を連ねた部分にパーティの雰囲気を感じさせますね。
Blackbeard"I Wah Dub"(More Cut Records)1980
さらに手持ちのレゲエ関連の本を片っ端から調べてみたところ、牧野直也氏の「レゲエ入門」にも「('50年代後半に)サウンド・システムが登場したことによって、ロンドン在住のカリブ海系黒人移民にも踊りの場が提供されるようになった。ジャマイカで録音されたレコードを置く店が少しずつオープンし、個人の家の中で開かれる「ブルース・ダンス」パーティも盛んになる。」の記述がありました。日本人が書いていると、ごく短い説明でもわかりやすく的確ですね。
その後、ネット上で検索してみたところ、'80年ごろのブルース・パーティの模様を記録した貴重なドキュメンタリーがyoutubeにあげられているのを見つけることが出来ました。
Vintage Documentary: Blues Parties & the closure of Black night clubs in London, UK - 1980 (プレビュー画面にも映っているロイド・コクソンはルイーザ・マーク"Caught You In A Lie"やダブ・アルバム"King Of The Dub Rock"のプロデューサーとしても知られる人)
映像付きだと、当時のパーティの様子、空き家を(不法に)利用して会場に転用するやり方などが一目瞭然です。ドキュメンタリーではブルース・パーティで儲けた一部の黒人たちがちゃんと認可を受けたクラブを'60年代後半に開業し始めるが、法令の改正、警察による取り締まりの強化、資金難などにより'80年前後に次々とクローズ、ふたたびブルース・パーティが流行し始める…といった流れで終わっています。イギリスを代表するレゲエ・グループのひとつ、スティール・バルスに"Blues Party Raid"という曲があるのを最近知りましたが、これはこの頃に作られた曲なのでしょうね。
ツー・ステップ・ソウルの時代になってからのブルース・パーティの様子については、ハウス/ガラージ系のDJで、レアなレコードのコレクターとしても知られるレッド・グレッグがウェブジンのThe Vinyl Factoryのインタビューで語っています。
レッド・グレッグ@The Vinyl Factory
「(自分の住んでいる)フラットのような建物で、深夜2時にスタートして翌日の午後2時まで続いていた~基本的には違法なパーティで、時には閉鎖された空き家を利用して、ドアをけ破り、バーをセットしてあった。飲み物は1ポンド。昔のウェアハウス・パーティのようなもので、とても小さな規模のものだった。入場料は基本的には無料で、特別な場合だけ2ポンド請求された…」といった感じ。
上のドキュメンタリーに記録されているのと同じような状態であったことがわかります。
ふたたび"Sounds Like London"の話に戻ると、ウェアハウス・パーティで活動していたDJたち、ノーマン・ジェイやトレヴァー・ネルソン、ジャジー・B、ジャッジ・ジュールスらも'80年代半ばごろからは規模の大きな会場でのパーティへと移行していき、ソウルIIソウルがレコーディング・アーティストとしてデビューする'90年前後にはUKでの(黒人向けの)クラプ・カルチャーも定着したということですから、ブルース・パーティもそれに伴って減っていったのでしょう。
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