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「犬」の存在意義が変わるとき(後編)

命に気づいた瞬間

黒柴の男の子を我が家では最初「番犬」として迎えた。
ペットショップを巡り、黒柴の男の子を夫に「抱いてみたら」と言われ、そのまま離せなくなった。

「番犬」として。
というのを大義名分に、決してかわいくない額を支払い、ふわふわとした気持ちで連れて帰った。

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家の中で飼う気はなかったので、ゲージは土間に置いた。
ワクチンがきちんと終わらないと、色々な病気に感染してしまうから、散歩も含めて外には出すことは控えるように言われたため、遊ぶときだけリビングで。
それ以外はゲージに入れていた。

飼い主であるわたしは、何事も形から入る典型的なタイプ。
マラソンのエッセイを読み、これは良き趣味の片鱗を掴んだのではと思った数年前には、まず靴とウエアを購入したのはテンプレ行動である。
(見た目にこだわり、見栄を盛大に張ったため、これまた可愛くない金額をかけたのだが、半年も経たずに辞めてしまった)

そんなわたしは片っ端から柴犬に関する情報を仕入れた。
ネットに溢れる情報から、Kindle本も買い漁り、Kindle本として出ていないものは、ネット購入。書店に行けば、柴犬に関する書籍が並んでいるところで腕組みである。

そして、一冊の本と出会う。
もう読み終わる頃には、目は真っ赤、鼻水は垂れ流し状態だった。
その時のことを思い出すと、今でも涙がふわふわ出てくる。
(年齢のせいか、すぐ泣くことはとりあえず置いておく)

涙が出たときの感情は「反省」である。
わたしは命を買ったのに、その命を全然自覚していなかったことに猛省することになった。

犬にとっての飼い主を考える

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「誰もが読んで欲しい」と読了した後に切に願った本である。

形から入るわたしは、犬がいる生活を整えることばかり考えていて、我が家にきたこの小さな命とどう向き合っていくのかは全然無視していた。

この本の中で出てくるとある夫婦が、柴犬を飼い、その犬が新築の家を盛大に破壊していく中で、「これでいいのだ」と開き直るシーンがある。
そこで自分の中で、パーン!と弾けた。何が弾けたのかは未だにわからないけれど、その日から小さな命との付き合い方が変わったのは確かである。

夫とも共有しようとしたが、どうもわたしは自分の中にある感情を一つの話として筋道立ててアウトプットすることが、壊滅的に下手なようで、共有できなかった。無念。

そして、それは文章にしようとしても難しかった。修行あるのみである。
とりあえず、「読んで欲しい」の一言である。

我が家にきてくれた黒柴の男の子。
彼にとって飼い主であるわたしたちが全てである。
言葉も話せないこの子のこれから起きる「何か」に気付けるのはわたしたちだけである。

彼は、「番犬」ではなかった。
わたしたち夫婦には起きないと思っていた奇跡である。
彼は、わたしたちの家族としてきてくれた。
我が家には家族が増えたのだ。

ちなみに、彼は全く吠えないし、噛まない。
見知らぬ人には全身で「僕を構ってくれ」と満面の笑顔で飛びついていく。
誰だ、柴犬は飼い主以外に懐かないと言ったのは。

彼は、「番犬」の素質がない、可愛い我が息子である。
彼にとっても飼い主のわたしたちは家族である。

責任重大!

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