見出し画像

感性を形にすること。【愛おしきスローな処理速度】

 後部座席の手前で真っ二つに切断された車の夢をみた。

 それは私が娘たち二人と乗り込むタクシーだった。

 切断された車は、それだけでは動けず方向性もままならないため、前方の完全な車と繋がれていた。

 乗り込んだはいいが、私は目的地の名前を思い出せない。記憶の中で、波を被って水面下に潜りこんでしまったようなその地名が、頭という理性と煩悩の揺り籠である子宮の羊水の中に浮かんだ脳でくすぶり、正体を不確かなものにしている。

**

 思うに、切断された車は私自身の理性だった。

 「やるべきこと」に追い立てられて感性という道しるべと繋いでいた手を記憶の海の中で放し、根無し草のように漂っている。

 理性で「やるべきこと」は、感性のベクトル無しには暗い。

 反対に、感性だけで行動が伴わなければそれもまた危い。

 中国の偉人もそんなことを言っていたっけ。

**

 ところで、私は処理速度が遅い。

 人と比べてゆっくりな方かなー、とは物心ついた時から思っていたが、ADHDコーチングの一環で知能検査を受けて、こうも有意に遅いものか、と感嘆した。

 でも、言語を使えなかったり、空間を全く把握できないわけじゃ、ないんだ。むしろ、言語処理は秀でている分野だ――必要とされるパフォーマンスを発揮するのに十分な時間さえ与えられていれば!

 ――そう、時間が、一般的に与えられて、その中で期待される程度にパフォーマンスを至らせるための時間が、圧倒的に足りなかった。だから、自分は雄弁にプレゼンもできないし、自分の考えや感情ですら、間に合うように人に口頭で伝えることができない、と長い間信じていた。コンプレックスだった。

 社会人になって人並みの締め切りに間に合わせるために残業したり睡眠時間を削ったりしたが、それでも人並みにできなかった。

 その哀しい過去に、私は花束を贈り、表現するための時間というギフトを今の自分に贈りたいのだ。

**

 秀逸なエピソードがある。

 数年来の友人と、共通の知人が何人も来ているような花火大会に出かけた。夕方、空に夜のとばりが落ちるかという時間、屋台が並び人があふれかえる中、「知り合い」に会った。私たちは軽く、挨拶をして行き過ぎる。

 その娘の名前が、私は思い出せそうで、思い出せない。そのことを友人に告げる。ああ、私はあなたよりも接点が薄かったし、覚えてないよ。――うーん、誰だっけかな?私はわたしのスローな脳に検索指示を出し続ける。

 友人とはその日、お泊り会をした。久しぶりの再会だったので、女子高のノリで夜中まで語り合って、途中まどろみながらも寝付けもせず、何となく夏の未明の空が白んできて、そろそろどちらかが眠気に降参して眠りに落ちそう、という頃。おそらく午前3時を回っていたと思う。私の脳裏に、「その娘」の名前が、鮮やかに表示されたのだ。

 マスター、ケンサクカンリョウデス!

 私は興奮して、眠りかけていた友人にそのことを告げ、検索に約半日を要した私の愛おしい脳機能にひとしきり、温かく、笑い転げた後、お互い今度は本当に眠りに就いた。

**

 このエピソードに限らず、こんなことは日常茶飯事だ(笑)

 そんな私なので、「感性」で閃いたことを形にするのにも、長い年月を要してきた。未だに10年来棚上げになって果たせていない約束もある。

 だけれど、感性に、ゆっくりでも形を与えてやることが、私を生きやすくするし、もしかしたら他のゆっくりな人も生きやすくするんじゃないか、と思い始めて半年が経った。

 そして、行動が翻訳プロジェクトとして動き出して1カ月と半。

 何も、人に決められた締め切りに、人並みのスピードで、人から言われたことを完遂するだけが、優秀ということではない。

 私たちはそんな物差しはぽーんと捨てて、自分の物差しをスタンダードに生きていったらいい。

 そしてその物差しが一定数の人の的を射ていて、結果的に広まり、その人とそれを必要とする人を生かすのを、天才の領域と言うのだと思う。

 


追伸:

5月24日(日)に2020年ラマダンが明けました。
ラマダン明けの閃きです💛ぜひ、作ってみてください♪


投げ銭は、翻訳の糧になります。