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どうしてわたしは,どうしたらわたしは

何でわたしは人並の速さでできないのだろう?
何でわたしはあちこちに気が移ってしょうがないのだろう?
どうしてわたしは,どうしたらわたしは

何でわたしはその過程ですべきこと・したいことを忘れてしまうのだろう?
何でわたしは無意識にモノをどこかへ置いて探し物ばかりしているのだろう?
何でわたしは人の想像以上に一日の終わりには疲れ果てているのだろう?
何でわたしは他人の感情を必要以上に自分に取り込んで共感してしまうのだろう?
何でわたしは話しかけても微笑み返してくれない人にこんなに気を取られてしまうのだろう?
(その結果心が疲れ果ててしまうのにも関わらず)
何でわたしは他人の期待に対してそれらを自分のものと混同してしまう程混乱していて脆弱なのだろう?
何でわたしは常によく理解できない時間というものを追いかけなければいけないような環境に自分を置いていて,結果として追いかけることを自分に課しているのだろう?
何でわたしは次から次へとアイディアが沸いてきてそれが実現できないことに葛藤を感じ続けているのだろう?
わたしは一日の活動時間の総量とすること・したいことに要する時間とのイメージのすり合わせがどうも苦手である。なぜだろう?
わたしは何かコメントを求められると言いたいことが頭の中で一気に口を開きだしてどれをどの順番で話したらよいのか!うまい流れに乗らないとよくわからない発言になってしまうのはなぜだろう?
だからに人前で話しをするときには本当に,念入りに準備が必要で,それでも伸るか反るかフィフティーフィフティーなのは経験の量と頭の使い方を知らないからだけなのだろうか?

わたしには何かに集中するのに特定の環境が必要である。
わたしの得意とする目の前にある一つのことへの集中力を生かしてできることは例えば何だろうか。
園芸・裁縫(ずっとやりたい)・日曜大工・香りづくり・マッサージ(どちらかというとされたいが)・通訳(ワーキングメモリのRAMがちょっと怪しい)・インド映画を1日3本観る(9時間インドづけでヒンディー語をマスター。ホメオパシー的鑑賞効果も期待できる)・ホメオパシーを学ぶ(おもしろそう・理に適ってる)・物理療法(面白い・理に適ってる)・アーユルヴェーダ(同左)・でも誰を癒したいわけじゃない。わたしの心身が楽なことが優先。体を再び壊してしまうのは本末転倒だ。
対人サービスだったら定型の人向けじゃないんだろうな。疲れる。

失くしものをしようがない程限られた空間でそこからでなければいいんじゃなかろうか。
そうすれば疲れない。
人酔いもしない。
好きな人とだけ会えれば良い。

他人の期待は置いておこう。
自分自身の声に調律する術を磨こう。

文字盤ではなく太陽や月や自然の音で時間を知る生き方。
文字盤の概念に合わせる必要はない。

自分の中から沸くアイディアを形にすることを生業としよう。
それが潰されたり疎まれたりするコミュニティやそういう意図を持つ個人とは距離を置こう。
耳を閉じる術を磨こう。

一日にする大ごとは一つきり。
あとは流れに任せられるような生き方を模索しよう。
したいことし放題で,邪魔されない空間,支援,孤独。

人に合わせたコメントをする必要はない。
自分の言うべきことを通過させる。
結果感謝は自然に沸くもの。
人にも自分にも強制しない。

決まったことを話すなら録画でも録音でもロボットにでも任せておけば良い。
じゃあ授業の本当の役割って何だろう?
素朴なやりとり?日本語でも,英語でも。そういう空気。
わたしは強制したくない。
受験英語は葵の御紋じゃない。
それを笠に恐れを抱かせるような授業は的外れ。
異なる言語の持つリズムや音声の美しさ、形の精密さの伝わるような授業を。
それを醸し出すための便宜的手続きとしての受験英語は視覚資料として先に準備してしまう。
テストの点が取れる授業,内容が生徒に効果的にダウンロードされる授業は前提だから。
インストールから先は、教員のできることは誘い水を打つことだけ。それ以降は彼らを信じるんだ。

さあ、こっちの水は甘いよ、やってごらん


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