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心の中にたくさんの人の椅子を・過集中と人付き合い

心の中にたくさんの人の椅子を置いた、すてきなおばあちゃんになりたい

と思い、それを赤いノートの一番初めのページに書き付けたのは、17歳ではじめてやってきた冬のうつが緩解してきた2月の終わりだった。「冬の終わりの雨の日に」と名付けたその一行で終わる詩みたいなものが、私の「書くこと」の始まりになった。

その時、わたしは既に気づいていた。私は悩めるとき、世の中を心の中から締め出す。out of sight, out of mind よろしく、目の前にないものや人のことを忘れて一心に落ち込む。空が落ちて来たかのように嘆く心のなすがままに、悲劇のヒロインになり切る。過剰な集中力は懊悩にも発揮される。だから、私の人生はドラマチックなのだ。

その反省としての、「心の中にたくさんの人の椅子を置いた」だった。つまり、自分にかまけてるんじゃなくて、他の人に気を注げる心持ちであること、そうして大切にする人と巡り合って関係を築いて行くこと、に、高校卒業間近のわたしは、憧れた。

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そうして心の中にたくさんの人の椅子を置ける人は、どのくらいいるんだろうか?

結婚して、夫を通して友人になったルーマニア人の女の子が、まさにそういう人だった。賢くて、冗談で身の回りや世界の嘆かわしいできごとをユーモアと皮肉で笑い飛ばした。私たちの子どもの誕生日やクリスマスを一緒に過ごした。その度に、子どもの歳や服のサイズを覚えていて、何かしらプレゼントを買って遊びに来てくれた。時に私にも。災害があると必ずボランティアに駆け付けていた。国連の職員を目指していた。人に自分のエネルギーを惜しまず与える人だった。彼女は若くして召されてしまった。きっと、神さまに愛でられ過ぎたのだ、と周りの誰もが思った。

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人はいずれにせよ、本当の意味では一度に一つのことにしか注意を注げないはずだから、例え心の中にたくさんの椅子があったとしても、ある時に真に考えられるのは一人のことだし、本気で接することのできるのも、一人なのだろう。

だから、たくさんの椅子、というのは、本当は控室にあるもので、本当のゲストルームには一人だけ、つど都度招いている、ということかもしれない。だとしたら、ルーマニア人の彼女が知っていたのは、その彼女の心の中のゲストルームの間口を広く人類という共通項をもった人々に開けておくことと、入ってきた一人ひとりを心からもてなす方法だったのではないだろうか。ゲストルームに招いた、つまり想いを致した人が、何を欲しどんな状況にあるのかに気を巡らせ、その人が喜ぶ何かを想像して、それを自分のもてる可能なすべてで差し出す。

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私はつまるところ、内向的過ぎるんだろう。時にそれを他者に向ける適切な方法と間のようなものを、あれから倍の歳を重ねて、まだ模索している。黄色い大輪の花を思わせる彼女を、ときどき思い出しながら。





*ヘッダーの画像はインド映画『ディア・ライフ』よりお借りしました。
たくさんの椅子のある部屋が出てきます。Netflixで見られるので、ぜひ。

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"You have to try; kursi (chair) after kursi, after kursi.. until you know 'THIS ONE' is meant for your"

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