物語を批評するとき、一体「何」を批評しているのか?

このような話題は私が書かずとも誰かがすでに精緻な議論を展開していそうだが、思考の整理として書き留めておく。もし類似の議論を行っている書籍や論文をご存じの方いたらぜひご教示ください……。
以下の指標は物語以外に対してもある程度適用可能だが、エンタメ的価値と倫理的価値がもっとも相乗りしやすいのが物語という媒体であるため、それに限定して話を進めている。

我々はしばしば物語作品を評価、あるいは批判するが、その際無意識的に特定の価値判断軸を通して作品を鑑賞し、その軸に従って価値判断を下している。そのため、同一の作品も異なる価値判断軸を通して鑑賞すれば異なる評価が下される。

例えば、エンタメとして大ヒットしている作品に対して「既存の作品の焼き直しだ」と批判することもできるし、「思想が浅薄である」と批判することもできる。「子供に悪影響じゃないか」とか言うこともできる。あるいは「大ヒットの工夫が詰め込まれている傑作」と褒めることもできるし、「個人的にぶっ刺さった」と評価することもできる。これらは同じ作品に対して異なる切り口から発せられた言葉と考えることができ、そのためこのままの状態では互いに議論することは難しい。各自がどの土俵にいるかを把握する必要がある。

つまり、ある評価がどのような価値判断軸を通して作品を鑑賞した結果下されたものなのかを明らかにすることは、個々の批評の立場を相対化し同じ俎上に上げる可能性を拓くことに繋がると考えた。
以下、物語批評の価値判断軸の整理としてさしあたり6つの「読み方」を提示し、それを用いて現実にどのような鑑賞がなされているかを整理する。(おそらく可能な読み方自体は無数に存在するので、以下はあくまで道具立てとしての分類である。)

A.個人エンタメ的読み(娯楽的読み)
┗作品が個人的に面白いかどうか。
個人エンタメとしての肯定「超強い主人公が強い敵と戦う展開はいつ見ても燃える」
個人エンタメとしての否定「どこかで見たことあるような展開ばかりで退屈だった」

B.集団エンタメ的読み(流通的読み)
┗作品が多くの人に楽しまれるように設計されているか。
集団エンタメとしての肯定「主人公に感情移入できるように設計されている」
集団エンタメとしての否定「描写があまりに稚拙で、臨場感を伝えることができていない」

C.個人倫理的読み(信条的読み)
┗作品が持つメッセージ性が個人が持つ倫理的信条(行動指針)と一致しているか。
個人倫理としての肯定「やはり悪は徹底的に裁くべきだし、主人公のように生きたい」
個人倫理としての否定「相手が悪人でもボコボコにされてるのを見るのは辛い」

D.集団倫理的読み(社会的読み)
┗作品が誰かに読まれることによって与える倫理的影響を許容できるか。
集団倫理としての肯定「勧善懲悪の考えが広まるのはよいことだ」
集団倫理としての否定「悪人なら暴力で制裁しても良いと思う人が出てくるかも」

E.哲学的読み
┗実際の倫理的損益を超えて、作品の提案する思想が正しいか、面白いか、新しいか。
哲学としての肯定「この作品の問題提起は一考に値する」
哲学としての否定「問題設定も答えも凡庸である」

F.考証的読み
┗作品の設定に矛盾がないかどうか。
考証としての肯定「時代考証がしっかりとなされている」
考証としての否定「江戸時代に新幹線があるかよ」

AとBの価値判断は「面白い/つまらない
CとDの価値判断は「善である/悪である
Eの価値判断は「正しい/誤りである、あるいは思索展開が興味深い/凡庸である
Fの価値判断は「正しい/誤りである
となる。

まず、これら6つの評価について、それぞれを切り離した鑑賞態度(評価軸ごとに独立した価値判断)があり得る。

・A(娯楽的読み) vs B(流通的読み)
「個人的には面白くなかったが、人々に評価される理由は理解できる」
「個人的には超好きだけど、絶対に大衆受けしない」

・C(信条的読み) vs D(社会的読み)
「主人公の思想は個人的には受け入れがたいが、この作品が読みつがれることは社会の健康につながる」
「主人公には大いに共感するが、主人公の思想の共感者が増えたら末法だと思う」

・A(娯楽的読み) vs C(信条的読み)
「ストーリーはめっちゃ面白いが作者の提示した思想には共感できない」
「話は面白くないが作者の思いには強く共感できる」

・B(流通的読み) vs D(社会的読み)
「よくできた作品だからヒットするのもわかるが、この作品のメッセージが広まって欲しくはない」
「ウケるための工夫が全くなされていないが、良い思想を持ってるのでぜひ多くの人に読んでほしい」

・C(信条的読み) vs E(哲学的読み)
「作者の思想は全く共感できないが、反論も難しいのでこの作品についてはまだ考える余地がある」
「作者が論理的に全く正しくないことを言ってるのはわかるが、それでもその信条に共感できるところがある」

・D(社会的読み) vs E(哲学的読み)
「この作品の言っていることは正しいが、この作品を世に出すことは社会にとって不利益である」
「この作品を世に出すことは正しいかもしれないが言ってることは全く正しくない」

・A(娯楽的読み) vs E(哲学的読み)
「正しいが面白くない」
「面白いが正しくない」

・A(娯楽的読み) vs F(考証的読み)
「江戸時代に新幹線が出てくるけど内容は面白い」
「舞台の再現が精緻だけど内容は面白くない」

さらにこの6つの評価は互いに関係し合い、片方の価値判断が他方の価値判断に影響することがある。(というか上のような分離的な読みは特殊で、以下のように複数の価値判断が合流するケースの方が一般的な鑑賞体験だろう。)

・C→A.<信条→娯楽>的読み
「悪を徹底的に裁いてくれたので面白かった」
「相手が悪人でもボコボコにされてるのを見るのは辛いので面白くなかった」

・D→A.<社会→娯楽>的読み
「勧善懲悪の考えが広まるのはよいことなので見てて気持ちのいい作品だ」
「この作品自体が弱者に不利な社会構造を再生産しているので見てて具合の悪くなる作品だ」

・B→D.<流通→社会>的読み
「エンタメとして面白い作品がよい思想を備えているのは社会的にも善いことだ」
「この作品が多くの人に面白がられてる状況は危険である」

・E→A.<哲学→娯楽>的読み
「この作品には思想的な深みがあり、何度でも読み返したい」
「随所の論理展開に誤りが多すぎるのでつまらなかった」

というわけでざっくりと読み方のパターンを例示してみた。

要は、ある作品について特定の読み方をした際に駄作だったとしても、他の読み方をすれば傑作であるということは往々にしてあり、だから自分が傑作だと感じた映画が酷評されていたからといって自分の感覚が誤りだとかそのレビューがわかってないと断罪するのは早計だということである。作品鑑賞というのは双方向的なコミュニケーションであり、その価値は作品と鑑賞者の関係性にのみ宿る。そしてその関係性というのはつまり読み方、読まれ方であり、それによって同じ作品から異なる価値が生起するのだ。読書サイトや映画サイトのレビューは星の数によって評価を一次元的な数直線に配置するが、実際は遥かに多元的な奥行きを持つのが作品である。これは作品の批評が一次元に落ちることに抵抗するための批評の批評である。

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