遺伝子として生きるか、ミームとして生きるか

以前投稿したものを大幅に加筆・修正しました。

人間には、文明のために生きる姿勢と、文化のために生きる姿勢の双方があるように見られ、多くの人間の中でその2つの姿勢は相反しながらも混ざり合っているように感じられる。そして、その2つの動機を支えるものはそれぞれ遺伝子と言語なのではないか、という仮説が私の中で立っている。以下からは、それについて詳しく述べたいと思う。

「生物は遺伝子によって利用される"乗り物"に過ぎない」

そう喩えたのは生物学者リチャード・ドーキンスである。元来、生物というのは遺伝子の乗り物であり、遺伝子の命令に従って食事し、生殖し、自らとその子孫を保存するように方向付けられてきたということだが、このような旧くから生物が持つ自己保存の動機をここでは「遺伝的欲動」と呼びたい。すべての生物はこの「遺伝的欲動」を携えて今日まで生き長らえてきた。

しかし、人間はそこに留まらなかった。人間は、偶然からか言葉を手に入れ(ラカン的には「人間はシニフィアンに住まわされ」)、自我を持つに至ったのだ。言葉の集積は象徴界(言語活動の場)という新たなシステムを構築し、我々を現実から引き剥がした。それによって、それまでの遺伝的なプロセスとは独立した、新たな欲動を手に入れるに至ったのである。これを「反遺伝的欲動」と定義したい。

注意したいのは、この「反遺伝的欲動」が生物学的な進化の結果(つまり遺伝の結果)立ち現れたものだということは認めたいということである。ここで重要なのは、例えば「名誉や蓄財や生殖よりも純粋な創作に人生を捧げる芸術家」のような人間が何故生まれうるか、ということを説明するための道具立てとしてこの概念を導入しているところにある。絵を描く動物は存在したとしても、絵のために死ねる動物は人間だけだろう。その差分の表現として以下「遺伝的欲動」「反遺伝的欲動」という語を用いる。そして、以下で描くのは遺伝子と言語(ここでは言語としているが、音や図像、記号も含めた人工的な情報を含みたい)の対立だが、これは情報と情報の対立という形に還元できる。遺伝子も、後述のミームも自己複製を繰り返すようプログラムされた(或いは動機づけられた)情報であり、両者が相克していると考えることが可能である、というのが本稿の目的だ。

さて、言語世界は動物が持っていた純粋な動機(進化が構築した自己複製システム)とは独立して機能する。DNAという情報を抱えて我々はこの世に生を受けるわけだが、それと同時に、既にこの世に存在する構築済みの言語システムも周囲の大人の手によってインストールされる。それにより、自らの遺伝的な欲動をも疑うことが可能となった(それはまるで、生物に侵入しその細胞を利用するようにプログラムされた"情報"であるウイルスのように)。こうして遺伝的欲動と反遺伝的欲動が生まれ、両者はせめぎ合うこととなる。反遺伝的欲動が優位に働いた個体は必然的に遺伝子が継承されず、自然界から淘汰されたため、残った個体は生殖や食事にインセンティブ(快)が与えられることとなった(と考えられる)。生殖や食事にインセンティブが与えられなかった個体は、言葉によってその行為自体を疑い、死を方向付けられてしまうからだ。一方で生殖や食事に快感覚を与えられた個体は、その快感覚がインセンティブとなって遺伝的欲動に従うことになるのだ。この遺伝的欲動、反遺伝的欲動の対立は、オーガズムに牽引された数々の悲劇の引き金ともなっているし、他の生物を食べることへの激しい倫理的葛藤を生んでいる(後述する)。

以下からは、遺伝的欲動と反遺伝的欲動それぞれの内実について考察したい。

まず、遺伝的欲動は個体の自己保存、そして遺伝子の自己保存の欲動である。前者の最たる働きは食事であり、後者の最たる働きは生殖という形で現れる。現代においては前者の「食事」的な営みは拡張され、「労働」という形に発展している。また、種の中で団結しより安全に遺伝子を継承するためのシステムとして「文明」が形成された。文明は我々に安定した食事を与え、他の遺伝子系を征服するように機能する。文明は遺伝子とともに知識として継承され、遺伝子の身を守ってきた。また、遺伝的欲動の究極目的は自己を中心とした遺伝子の保存であるため、その存続を脅かす他の遺伝子(特に、自らと遠い遺伝子)と対立しうる。そして、(多くの生物がそうしているように)純粋な遺伝的欲動に従うのに言語は不要であり、そのため遺伝的欲動はより直観に駆動されやすい欲動と言える。ただし、言語を獲得した時点で純粋な遺伝的欲動に従って生きる人間は存在しない。純粋な遺伝的欲動は純粋に動物として生きることを求める。

対して、反遺伝的欲動は、象徴界を手に入れた我々が(旧い)遺伝子の命令に逆らい、独立した自我として動くための欲動である。
反遺伝的欲動の最たる例は、純粋な好奇心である。自らの安全を確保するために周囲の環境を知ろうとする欲求はすべての動物に備わっているが、それに寄与しない知的営為にも喜びを見出すのが人間である。この純粋な好奇心は「教養」と言い換えてもよい。教養とは、自分を知ること、そして、世界を知ること。遺伝子は自らが何者か知ることを要求しない。遺伝子は世界の正体を知ろうとすることを要請しない。教養とは、究極の自由の追求であり、遺伝子の命令からの解放である。
また、反遺伝的欲動は「労働」に対置されるもの、すなわち「遊び」でもある。「遊び」という語は遊戯だけでなく、ボルトの緩みや不必要な余白に対しても使われる言葉である。遊びとは「無駄」なことなのである。そして、遺伝子は無駄を必要としない。遺伝的な欲動は個体にひたすら生きることを要請するが、遊びはそれに反旗を翻し、一度立ち止まることを要請する。「労働」という生への動機づけを一旦諦め、反遺伝的な自我の赴くままに動くことが「遊び」なのである。
さらに、反遺伝的欲動は「文明」に対置されるもの、すなわち「文化」でもある。「文化」に遺伝的な意味はない。「文化」は遺伝子を守ってくれはしないし、個体の存続に貢献するものでもない(文化がもたらす社会的な団結が遺伝子の存続に寄与することもあろうが、そのためだけに文化を営んでいる人間は決して多くないだろう)。文化もまた、本質的に無駄なものなのである。そして、これら教養・遊び・文化は、長く人間の証として語られてきたものたちではないだろうか。
反遺伝的欲動を追求することは言語世界での活動を推し進めることでもあるため、そこは論理の世界でありときに直観から離れた結論を導く。また、反遺伝的欲動の追求は遺伝子のプライオリティを下げる(つまり自己を中心として同心円状に広がる自己保存の境界を拡張していく)ことでもあるため、命の価値を等価に扱う範囲を拡大する方向に進みやすい。ただし、当然だが生きていく上で純粋な反遺伝的欲動に従って生きることは不可能である。なぜならば生きることそれ自体が遺伝的欲動によって動機づけられているためだ。純粋な反遺伝的欲動に従って生きるということは、自己保存を諦め情報として死ぬことを意味する。

ここまで書くとわかることとして、遺伝的欲動と反遺伝的欲動は現実には相互依存関係にあるということである。遺伝的欲動の遂行のための道具として今や言語は不可欠なものであるし、また反遺伝的欲動の遂行のためにもその行為者たる生きた人間が必要である。このように、両者は互いに寄りかかっているといえる。

遺伝子欲動と反遺伝的欲動の内実について見たところで、次に両者の相克について検討したい。

まず、我々が生を受けたとき、そこには遺伝的欲動と反遺伝的欲動が渾然となったものしか存在しない。乳飲み子の我々はまだ言語を持たず、生を疑う能力を与えられていない。死にたがる赤ん坊はいないのだ。しかし、その後言葉を手に入れ、その言葉を通してさまざまなものを目の当たりにすることによって、赤ん坊の頃には背景であったこの世界に「重み付け」がなされていく。具体的には、分割不可能なこの世界を言葉によって切りわけ、そのそれぞれに何らかの特徴量を与える作業を行っていく。この「重み付け」は、他者である世界に生きる意味を見出していく作業であり、愛を知る作業と言ってもよい(この「愛」は、人間に限らず特定の対象に心が惹かれる原因としての広義の愛を指す)。我々はこの「重み付け」によって他者と関係性を構築し、その他者の中に欲望を見出していく。そしてこの「欲望」はまさしく言語世界の中の欲望である。我々は言葉を通して世界を見た時点で、旧い遺伝的な欲動からの分裂が始まっているのだ。言語世界における愛に論理的な理由は存在しない。しかしその理由なき愛は、遺伝子に反逆するほどの強い力を持つのである。こうして、言語のインストール期間である幼少期はその反遺伝的欲動を成熟させていく期間と見ることも可能で、もっとも純粋な文化や遊びに奉仕しやすい時期といえる。しかし、こうして反遺伝的欲動を培ってきた子供時代を終えて思春期に入ると、突如として強烈な遺伝的欲動が目を覚ます。この遺伝的欲動、つまり性衝動は、それまで培ってきた反遺伝的欲動と大きく矛盾するものであるため、我々はそれをひどく恥じ、背徳を感じ、激しく葛藤する。こうして、遺伝的欲動と反遺伝的欲動は決定的な分裂を果たすのだ(これは生を疑う能力を獲得することでもある)。その後、ある人は性衝動を認め、受容し、遺伝的欲動を重んじて生きる。またある人は性衝動の矛盾を認めず、拒絶し、反遺伝的欲動に重きをおいて生きる。(ゆえに「労働」「生殖」「文明」は大人の象徴であり、「好奇心」「遊び」「文化」は子供の象徴となっている。好奇心に輝く表情を「子供のよう」と表現したり、親元で純粋な文化に興じている大人が「子供部屋おじさん」と揶揄されたり、あるいはイラストのような「文化」的な職業が「遊び」とみなされそれに適切な「労働」対価が支払われなかったりするのも、この連続性に拠る。)

今巷間で行われている倫理的議論、特に平行線をたどりやすい倫理的議論の多くは、この分裂から発生していることが少なくない。例えば「動物の肉を食べることは倫理的に正しいか」という議論は、遺伝的欲動に従って生きる人間、すなわち生物を食らうことにインセンティブが与えられている、という事実を大切にする人間にとっては正しく、そのインセンティブを拒絶し今までに見てきた世界を大切にしたいと考える人間、つまり反遺伝的欲動に従って生きる人間にとっては、ただならぬ悪と映る。この分断は論理では埋まらない。欲動は論理より根源的なものであるためだ。(しかし、この欲動の相克について悩み続けることには価値があると私は信じている。)

ときに、遺伝子の視点に立ったとき、たとえ個体が死んだとしても生殖に成功さえしていれば遺伝子自身は生き残ることに成功したと言える。そして、豊かな文明を築き上げ、よい子供を持つことができたのならば、それは遺伝的欲動にとっての大いなる歓びと言えるであろう。
さて、遺伝的欲動が子供を残そうと動いているとするならば、反遺伝的欲動は何を残そうとするだろうか。それはおそらく「ミーム(meme)」であると考えられる。ミームとは最初に挙げたリチャード・ドーキンスの提唱した概念で、脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報を指示する。ちょうど環境に適応した遺伝子が生き残り繁殖するように、言葉(を含めた人工的な情報)もまた環境に適応したものが人々の脳に残り、継承されていく。言語世界が(偶然にも)生物のエコシステムに類似した自己保存の欲動を持ったと考えても良いかもしれない。すなわち、より優れたミームをこの世界に残すことが、反遺伝的欲動にとってのひとつの歓びと捉えることができる。それは芸術活動かもしれないし、学術的な探求かもしれない。

人間には遺伝的欲動と、反遺伝的欲動の二種類が内在し、葛藤している。また、多くの人は葛藤しながらも、そのどちらかに重心を置いて生活を営んでいる。そして、遺伝的欲動に従って生きる人にとっては、子供を残し、よく労働し、豊かな文明に貢献することこそが、よい生、ひいてはよい死に繋がると考えられる。一方で、反遺伝的欲動に従って生きる人にとっては、ミームを残し、よく遊び、豊かな文化に貢献することこそが、よい生、よい死となるであろう。そして、こう書き並べることによって、遺伝的欲動と反遺伝的欲動が必ずしも排反ではないことが伺える。両者と協調しながら、よりよい生、及びよりよい死について考え続けることそれ自体も、よい生と死のための要件と言えるかもしれない。

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