見出し画像

地獄なんて絶対やだ

救われない話が好きだ。

挫折し蹲っている主人公に手を差し伸べず、
それどころか一層の苦しみに陥れる作者はもっと好きだ。

「フィクションは現実を生きるため」だと
とある芸能人がエッセイで語っていた。

頭がもげるくらい頷いた。

私にとって、フィクションは現実からの逃げ場であり、くすんだ精神の浄化装置であり、欲求を満たす場であり、道標。

救われない話が好きだ。

鬱アニメ、鬱漫画。
いわゆるダークファンタジーともいうべきか。
希望の光が見えた瞬間に、それがプツッと神によって閉ざされてしまうような。

友人に軽率に勧められない物語に惹かれてしまう。

激辛料理を食べに行く人の感覚はわからないけれど
似たようなものだと思う。

激辛料理は、辛すぎてもはや唐辛子の味しかしないし、
食後にお尻は痛くなるし、踏んだり蹴ったりだ。

それでもその踏んだり蹴ったりを味わくべく激辛を求める変態はこの世に結構多い。

おそらく激辛も誰かにとっての「フィクション」なのだろう。

辛いものを食べて、おいしいと思うのも、
鬱作品を見て、読んで、面白いと感じるのも
ハリボテの地獄を楽しんでいるだけ。

ハリボテの地獄は私たちのそばにある生の地獄を代弁する。

みんな苦しいことがたくさんあって、嫌なことがたくさんあって、地獄にいるはずなのに、まるで原っぱで寝そべっているような穏やかな顔をしている。

おかしいじゃないか。

地獄を地獄だと正直に言ったら、弱者だと思われる、抑圧され、排除される、そんなみえない空気に呑まれて、歯を食いしばりながら強者のフリをして茨の道を裸足で歩いてるだけなんでしょう?

「地獄でなぜ悪い」という曲を星野源は出した。

地獄?かかってこい!みたいな前向きな曲、あれを闘病中に制作したのだから彼はすごい。
負の感情を正のエネルギーに変換させる原動力がどこから湧いて出てくるのか甚だ不思議である。
それが、彼が愛される所以なのかもしれないけれど。

星野源は「地獄でなぜ悪い」
世間の人は「地獄なんて嘘」

私だったら「地獄なんて絶対嫌だ!!!!!」

まだ星野源ほど、人間の本質を知らないから甘ったれたわがままなタイトルをつけてしまう。

「就活楽しんで!」

とOBの方からのメールの文末に書いてあった。
何を言ってるんだこの人は、とドン引きした。

話を聞いている間は心の底から行きたい会社のまじですごい先輩で、この人の脳内を覗きみたいさえと思っていたのに、
その一文から滲み出る強者の余裕が私を殺したのだ。

就職活動を楽しいなんて思ったことはない。
時間をかけて書いたエントリーシートを落とされる、通ったと思えば足切りのためだけに大嫌いな算数のテストをやらされるという苦痛につぐ苦痛。

自己分析という名の出口のない迷路を永遠と歩かされて、時にはトラウマという名の地雷を踏んで、怪我をしてもなおその傷口を抉り続けて、あるのかもわからない自己一貫性を見出す作業。

本当はさほど興味のない会社説明を聞いて、もしかしたら軸に当てはまるかも、なんて無理やりに業界の幅を広げて、漠然とした違和感を押し殺しながらまともな就活生のフリをして。

これの何を楽しめっていうんだ。

綺麗事ばっかり言うな。

私は今日も鬱漫画を読む。
だってほら、ここには綺麗事なんて一個もない。
救いもない。
友情と努力があっても勝利はない。

そもそも、取りようによっては負けも勝ちになり、逃げも勝ちになるこの国で、絶対的勝利を崇拝するのはいかがなものか。

推しは上半身吹っ飛ばして死ぬし、
(推しの背骨見たことある?私はあるよ。)
主人公は絶望の淵に瀕して路肩でうずくまる。
世間で話題の最強の男はもうかれこれ2年は原作に出てこない。
それでも、私は読み続ける。

読んで、その残酷な運命に泣く。
えげつないくらい泣く。
読み返し、わかっている展開に「やめて、やめて」と叫びながら号泣する。

全身の毛穴から汗を吹き出し、鼻水を啜りながら
辛いものを食べる。
ああこれ明日大変だなと思いながらも、赤黒いそれを口に運ぶ。
辛い辛いとひとりごちて、ティッシュで口元を拭う。

それは私たちがハリボテの地獄を通じて、
生の地獄の苦しみに喘ぐ時間。

悲しいことを悲しいって言える。
辛いことを辛いって言える。

そうして私たちは少しずつハリボテのそれで痛みをを発散する。
今日も現実でなんてことないフリして、棘の上を血だらけになりながら歩く。

「現実を生きるためのフィクション」は
「地獄を生きるための地獄」なの。

なんてね。
嘘だよ。

嘘ってことにして、強がらせてよ。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?