劇団ロオル「M」観劇


 昔知り合いの女性が居酒屋で「女は女に生まれたから女じゃないの!悩んで苦しで頑張って女になるの!」と高らかに講じて店内の女性客から絶賛されていたのを思い出した。まさにこの物語は女性が「女」性の苦悩を描いた作品となっている。
 表現こそ夢か現かと言った感じだが心理の切り取り方は冷徹と言っていい程ドライで容赦がない。この辺りはやはり女性ならではの演出だと思った。男だとどうしてもドロドロした陰湿なものにしがちになるんじゃないだろうか。そういう意味でも女性だけで紡ぐこの物語は男性にも勧めたくなる作品だった。

 この作品は観る人によって随分感想が変わると思う。
 突然だけど自分はバイセクシャルだ。だからと言う訳では無いけど幾分女性的な心理側面はあると思う。男女問わず友人からもそんな指摘をよくされる。「見た目はこんななのにね」とのセリフ付きで。大きなお世話だ。そんな僅かながらの自分でさえこのお話は中々胸に去来すものがあった。ましてや女性の観客ならその反応は千差万別だろう。
 登場人物の誰かに感情移入する人も居れば完全に観客として話の外から眺められる人、形にできないモヤモヤを抱えて消化不良をおこす人も居るだろう。中には胸を抉られ血や涙を流す人も居るかもしれない。そうした女性達の流した血や涙がこの作品の骨子なのだろう。

 本来自分は考察好きだ。感覚で捉えたものを理屈で理解しようとする。感覚派の理屈屋とでも言うのか。
 例えばこの物語の中で2人でひとつのマフラーを使うシーンがあったが、自分にはそのマフラーがまるで「ヘソの緒」のように感じた。2人の関係からすれば「ヘソの緒」はちょっと違うのかもしれないが兎に角そう感じたのだ。いつもならここから理屈でもって色々と考えを巡らせるのだが今回は何となく、少なくとも舞台を見た直後の今は余り理屈で遊ぶ気にならない。
 この作品は頭で楽しむより物語に触れて心に出来た複雑な波紋の模様を感じている方が相応しい気がする。
 波の音が血管の中の血流の音に聞こえた。鳥の鳴き声は悲鳴の様だった。潮の香りは体液の塩辛さと同じだった。バスの来ないバス停は「あの時」の自分の感情を思い出させた。物語を紡ぐ女性達は自分の中にも居る事に気が付いた。母の姿、少女の渇望と女の選択が自分の記憶や感情を刺激する。
 それら全部が波紋となって織り成す一つの幾何学模様そのものが今回の「感想」と呼ぶべきものなのだろうけど、さて、この心の模様にどんな言葉を依り代にして形を与えたら良いのだろうか。何と名前を付けるのが相応しいのだろうか。実に悩ましい。

 この文章、金曜日の夜からまとめ始め更に今加筆修正しているのだが、その間何度も反芻して心の波紋に身を揺蕩いた。そうしてようやく気が付いたのだが、この波紋の一つ一つは今の自分自身を形作る構成要素だ。
 なんてこった。今まで舞台に限らず色んな作品を観て感情移入したり自分に置き換えたりした事は勿論何度もある。だけどまさか生の自分自身と向き合う事になるとは思わなかった。ここまでダイレクトに心を揺さぶられたのは初めての経験だ。
 最初にこの舞台を観た時、奥行きが深い作品だなと思った。だけどその深い所に自分自身が居るとは思わないじゃん。そしてこうして文章をまとめていて突然腑に落ちた。この作品はまるで意匠を凝らした白銅鏡の様だ。
 この「M」という作品を観た時、先ず意匠を凝らした装飾の様に良く作り込まれた物語や演技に目が行く。そうして深く入り込むと自分自身が見えてくる。白銅鏡は現代の鏡と違ってどこか幽玄的で現実以上の奥行きを感じる世界を映し出す。そこに映っている自分も今の自分だけではなく過去の様々な自分、中には思い出したくもない血塗れの自分も映っている。ような気がする。
 どんなに目を背けたい過去だろうとそれは紛れもなく今の自分の礎となっているのだから、そりゃそんなもの見せられたら心の波紋も一つや二つじゃすまない道理だ。それでもまた覗き込みたくなる魔力のようなものが白銅鏡と同じくこの作品にはある。
 それはきっと女性の心理を解剖学のメスの様な鋭さで容赦なく切り取りって並び上げてみせたこの作品の、それでもその根底に悩み苦しんだ人へのエールが感じられるからだろう。

 数年後この作品を思い返した時にはきっと今とは違う感想を抱くと思う。それでもその時の自分への何某かのエールになってくれればと願いこの作品をお守りにしたいと思う。

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