死ぬ体で生きんな--空気階段の踊り場#324に寄せて

死ぬ体で生きんなバカ!

放送から4日経ってもなお、この言葉の衝撃が残っている。
冒頭に引いたのは『空気階段の踊り場』第324回において、水川かたまりが相方・鈴木もぐらに放った一言である。
この回はもぐらの不摂生を水川が糾弾するオープニングトークで幕を開ける。
黙っているときの呼吸音が日増しに大きくなっている、声が出づらくなっていてコントに支障が出ている、などなどの不満を次々にもぐらへとぶつけていく水川。周囲の先輩・後輩、仕事関係者からももぐらの体調を心配する声が届いているといい、危機感を覚えた水川は手を替え品を替え、もぐらにダイエットさせようと説得を試みる。しかしもぐらはいつもの調子で屁理屈を捏ねてはぐらかし、水川の提言を聞き入れない。リスナーからしたら何度聞いたか分からないほどのお馴染みの展開ではあるのだが、今回はちょっと様相が違い、水川は一向に引く姿勢を見せない。生活習慣を改める気がないもぐらの態度に業を煮やした水川の苛立ちがピークに達したとき、発せられたのが冒頭に引いた一言だ。この日も結局はもぐらが逃げ切り、ダイエットの話は一旦立ち消え。その後は通常通りに単独公演情報、コーナーへと番組は進行していった。

受け止め方は人それぞれで、殊更騒ぎ立てる放送回ではないのかもしれない。
しかし自分は通勤中の電車の中でこの言葉を聴いた時に、眠気が覚めるほどの衝撃を受けたのだった。
「死ぬ体で生きるな」なんて、本気で人を救いたいと思わないと出てこない言葉でしょっていう優しさに胸打たれたのと、この言葉に宿る生命の躍動ともいえる、人生を肯定的に捉える響きに感動を覚えた。

なんで自分はこれほどまでに感銘を受けたのか?とこの感情について掘り下げてみたのだが、思い当たる節が2つあった。

1つはこの回の前週に放送された『あちこちオードリー』で、オアシズがゲストに来た回を観ていたからかもしれないと思った。
2年前に留学した光浦が一時帰国し、相方の大久保と共にコンビで出演していたのだが、その内容がとても良かったのだ。
単純に笑えるという意味でも面白かったのだけれど、未来の展望を語る光浦の生き生きとした表情が何とも素敵で。それは「死ぬ体で生きる」とは程遠い姿であったことは言うまでもない。50歳を越えてやりたいことが増えつづけている、そのバイタリティ溢れる姿勢に励まされた人は多かったのではないだろうか。

で、話は空気階段に戻るのだが、オープニングトーク中にこんなやりとりもあった。
水川が以前「20年後どうなっているか」というインタビューを受けたことに触れ、「(このままだと)おまえ絶対に死んでるもん!」と切実に訴えているのだけれど、もぐらはまともに取り合わない。その態度に対してまた水川が激昂する。

なんかかっこつけたロックミュージシャン好きなのか知んないけど50にはおれ死んでますみたいな態度で生きんなバカ!

ちょうど「50」という数字が出たのもあるけれど、前述した光浦の姿が頭をよぎり、もぐらとの対比でどうにも虚しい気持ちになってしまったのだった。そのこともあり、余計に水川の言葉が響いたのだと思う。

残りの1つについては小説になるのだが、3月か4月くらいに読んだ『成瀬は天下を取りにいく』という作品のことだった。普段なら手に取らないタイプの小説なのだが、次に引用する柚木麻子の帯文が購入の決め手となった。

可能性に賭けなくていい。可能性を楽しむだけで人生はこんなにも豊かになるのか。

成瀬は好奇心旺盛で色んなことにチャレンジするのだが、どれも長続きせず特別な成功を収めるとは言いがたい。だが、彼女が起こした行動は確実に誰かの心に刻まれていて、ふとした拍子に人生に好機をもたらしたりする。それを当人は知る由もないが、そういった個々人の「小さな行動」が、人知れず世界を豊かにしていくのだ。それは映画EEAOの作中にも出てきた「小さな決断が運命を変える(セリフ合ってるかあやしいですが)」とも共鳴する要素と言えよう。当たり前のことではあるのだが、行動しないことには世界はいつまで経っても変わらない。

かたや実在の人物、かたやフィクションのキャラクターではあるが、両者とも人生に「自分の可能性」を見出して生きていることは共通している。そんな「死ぬ体で生きていない」2人(あえて2人というけれども)に活力をもらった身としては、今のもぐらの暮らしぶりは聞いていられないところがある。
とりあえずもぐらは食生活を見直して身ぎれいにし、多少なりとも健康的な生活を送ってくれと言いたい。少しでも長生きしてほしいと願う、空気階段の一介のファンより。

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