朝焼け

冬の舞踏会

日に日に、陽が短くなっている。
霜月。朝起きても、真っ暗なことがほとんどとなった。
夏の朝のノスタルジックな匂いが好きな人は多いと思う。朝露に濡れた草を踏む、ラジオ体操の時間の匂い。それを過ぎたこの季節もまた、複雑な匂いをしているなぁと思う。しっとり濡れた枯れ葉の匂い。けれど「朝の匂い」で圧倒的に思い出すのは、やはり冬ではないかと思う。
体力的な理由からすっかり行かなくなってしまったが、私は高校時代からずっと、コミケに参加し続けていた。
コミケ当日の朝は特別だ。サークル参加なので始発こそ使いはしないが、それでも早く家を出る。

家族を起こさないようにそっと動いたつもりでも、やっぱり母が目を覚まし、寝床から低く声を掛けて来る。
「もう行くの」
「うん」
「徹夜したの」
「少し寝たよ」
そんな短いやりとりの後、いってきますとドアを開ける。
外はまだ暗く、吐く息も白い。手袋を少しの間眺めて思案。歩いているうちに温かくなるだろうと思い直し、ぎゅっとコートのポケットに押し込む。カートを引くと人気のない住宅街にガラガラと場違いな音が響き渡る。ご近所の皆さんごめんなさい。すぐ行きます。すぐに駅へ向かいますから、どうぞ。


清々しい冬の空気を、すうっと胸いっぱいに吸う。少し寝不足ではあるけれど、頭は冴えて気持ちいい。わくわくと膨らみ続ける左胸に、朝の匂いが沁み込んで、ほどよく落ち着かせてくれる。
忘れ物は? ない。
ペーパー? 持った。
お土産? 持った。
サークルチケット? 財布の中。
Suica? チャージした。
友達に貸す予定のCD。忘れた。
まぁいい、新年あけたら会おう。


空は夜明けで白くて黄色い。建物の影がのこぎりの歯の様にぎざぎざのシルエットを刻み、その黒々とした境界線から、朝日が眩しく顔を出す。小学生の頃画用紙に書きつけていた太陽は米印のように四方八方光の矢を飛ばしていた。けれど、冬の朝日はそんなに愛想良くは無い。ビカッと長い斜線が一本、街を鋭く刺して伸び、その対角に、時計の短針のような力強い光線が一本。その二本の間にどこよりも白い線がか細く二本。だいたいこの四本で説明がつく。
天気がいいなら、京葉線の中から富士山が見えるかもしれない。そんな期待にますます口角がにやりと上がる。


ガラガラ、ガラガラ、カートのタイヤが私の足音をすっかり隠す。大通りに出ても、昼間と違ってまだ車は少ない。今、この街で一番やかましいのはきっと私に違いない。なんとはなしの征服感。街路樹の根元の霜柱だって、ざくざく踏みしめて優越感。どうせ誰もいないのだから、大人だけれどはしゃいでもいい。
と、ふいに角から人影が見え、途端にしゃんと背筋を正す。しまった、見られてしまっただろうか。そんな心配も瞬時に吹き飛ぶ。相手はとても忙しそうに、考え事の途中を示す眉間のしわを刻んだまま――あるいは寝不足のしょぼ目のまま――足早に道を進んでいる。こちらなど目にも入っていないだろう。
彼女と同じくらいの歩調で、共に、駅までの道を進む。
綺麗に巻いた栗色の髪。ピンクのふわふわファー付きコート。そしてリズリサのキャリーバッグ。
レイヤーさんかな? サークルかな? ともあれ、行先は恐らく一緒。


駅のホームに昇れば、カート仲間はますます増える。ファミレス座談会から直行したと思しき男性の集団。ひたすらスマホをいじる女子。うとうとよろよろしてる女子。なんとはなしの連帯感に、訳もわからずほっとする。
電車に乗ればまた増える、わくわくそわそわした仲間。いつもと雰囲気の違う車内にもぞもぞしているサラリーマン。友達と声のボリュームが大きくなっていく子が現れだすのもだいたいこの辺。目に余るなら注意しようとそれとなく心に留めておくものの、別段言うほどのことも無く、BBAとしては安堵する。
ゆっくり、電車が動き出す。揺れがカタカタ心地いい。シートに座ったカートの女子は、早速仮眠に勤しんでいる。大きなリュックの男性はその荷を手早く肩から下ろし、着席した友人の膝に乗せている。いつもと同じ、馴染んだ旅路。何度も何度も繰り返したのに、それでも何度もわくわくする。さぁ、どんな一日が始まるだろう。大好きな人に会えるかな? 素敵な作品と出会えるかな? 憧れの人に今日こそ感想言えるかな? 頑張って作った本が、どうか一人でも多くの人に手に取ってもらえますように。
「富士山だ!」
はしゃいだ女の子の声に、車内の視線が一斉に向かう。白くまばゆくかすむ景色に、うっすら浮かぶ富士の影。
思わず叫んだ女の子も。
うとうとしていたレイヤーも。
熱く語っていた男性陣も。
きょときょとしていたサラリーマンも。
おはよう、今日がスタートしたよ。いつもより少し特別な日だよ。特別な日になるように、ずっと準備したんだよ。

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