「カラコロ」ーー83歳の母から聞いた、戦後に遺骨として石を受け取った話

母が4歳の時、戦争が終わった。
これはそんな幼かった母が、認知症の中ぽつりぽつりと語ったことなので、時折統合性がとれていない可能性がある、そんなお話です。

ーーー

玉音放送の音はガビガビしていて、何を言っているかわからなかった。
近所のみんなで集まって「なんて言ってる?」「わかる?」などとザワザワ話しつつ、ラジオが終わったら「どうやら戦争は終わったらしい」と語り合ってぞろぞろ解散したとのこと。

母は当時、母(私の祖母)と兄(私の叔父)と栃木に疎開しており、戦火を逃れました。父(私の祖父)はビルマで戦死したと聞いたそうです。車が運転できたことから、戦闘経験はないものの、伍長として現地へ派遣され、軍用車(ジープ?)を運転したり直したり。
彼女にとって父の記憶は薄く、稀に帰ってきては彼女を膝に乗せてハーモニカを吹いていた、そんな光景を覚えていると言っていました。

彼女はそのまま栃木で少女時代を過ごし、兄が成人して本来の故郷である東京で働くことになったのち、母と2人で兄の元に身を寄せることになったとのことでした。
そんなわけで、それまでは栃木で暮らしていた訳ですが、終戦からしばらくたったある日、政府から手紙? 電報? が届いたそうです(この辺曖昧)。なんでも、英霊達の遺骨を渡すので、靖国まで来るように、とのこと。

紋付の喪服に身を包んだ母に手を引かれ、彼女は靖国を訪れたそうです。先頭に立つのは、後継であり長男である彼女の兄・6歳。彼もまた立派な正装をまとい、幼いながらも家長代理として背筋を伸ばしていたそうです。
順番を待ち、ようやく遺骨の箱を受け取る兄。しかしその箱は異様に軽く、また、なにやらカラコロ音がする。
母があれこれ手続きしている間に兄がその場(靖国神社の境内)にしゃがみ込み、遺骨の箱を開け出しました。止める母の制止も聞かず、風呂敷、木箱を広げてみれば、骨壷にはコロンと、ひとつの石が入っていました。
猛抗議する母に係の人は「遺体は回収できなかった」「それしかない」「それは現地の石だ」と説明したそうです。

さて、そこからまたしばらく経った頃。
父の部下であったという男性が、家を訪ねて参りました。
彼は折り目正しく頭を下げると、父の仏壇に線香を上げ、改めて母に向き直り、「申し訳ございませんでした!」と土下座したそうです。

ビルマの地で敵に追い詰められたこと。
負傷者がいたこと。
車を運転できる父が、皆をその場でおろし、囮として1人ジャングルの奥地へ向かったこと。
そのまま帰って来なかったこと。

「私だけ、生きて帰ってきて申し訳ありません!!」
土下座したままのその方に、母は頭を上げるように言い、訪ねてくれた礼を述べ、父の話を聞かせて欲しいと頼んだようです。
彼らはそのまま、一晩中語り明かしたとのことでした。

彼女が翌朝目を覚ますと、母に呼ばれ、お客様に洗面器を持っていくよう言い付けられました。
当時、家の中には洗面所などありません。
庭の手押しポンプで金タライに水を汲み、コップにも水を入れ、歯ブラシと手拭いを持ってお客人のお部屋へ運びました。
タライの水で顔を洗い、コップの水で歯を磨き、口を濯いだ水はタライに吐き出す、そんな使い方だったそうです。
ご挨拶をして客間に入り、洗面器を渡してさて部屋を出ようとしたところ、カラン、と高い音がして、思わず彼女は振り返りました。金タライの中に、義眼がころりと落ちていたそうです。
生きて帰ってきた。
でも、無事に生きて帰ったわけじゃない。

戦争体験者の話は、どんどん聞く機会を失っていきます。
語り部の記憶も薄れたり混濁したりしていきます。
なんなら、ウケの良かった話はだんだん本人の記憶の中でも美化され、全然違う話になってしまうことも少なくありません。

これは当時4〜5歳だった母の体験談として聞いた話で、どこかに、何かの形で残しておきたいと思ったものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?