筆者の考え
前回投稿した文章は初めてわたしがわたしじゃない人のことを主語にして書いた文章で、わたしじゃないけれど、これはわたしで。
好んで架空の物語を読んでいなかった。けれど、架空の中に"その人"が入っていることがある。ということに気づいてから物語を読むのが少し好きになった。
わたしは今となっては少し特殊な仕事をしていて、古くからの、とある技術が必要なことで、さらに伝統芸能にも関わりがある仕事なので、それを人に話すとすごいことをしているんだねって言ってもらえることがある。それが特別で素晴らしいことをしているかのように。
特殊な仕事だとは思うし、私自身もこの仕事に就くまでに4年間学校に引きこもるようにして技術を得てきた。そして自分のしたいと願ったことを仕事にしている。確かに誇れるものであると言えると思う。
でも、やっている仕事は今までの地続きのようにしか思えない。職場に行って、作業をして、家に帰る。それ以上でも以下でもない。それ自体に充実を感じる物でもないし、それどころか、繁忙期の終わりのみえない残業や、休日出勤にうんざりしている。
外から(人からと、客観視をする自分から)みた自分と、今の自分の感情のズレが大きくなってしまったなぁ。と気づいて、ふと虹の足の中にいる人のことをおもった。あれはもしかしたらわたしなのかもしれないな、と。
幸福の中にいるのは確かなことで、それを自覚もできる。それでもどこか頼りなく、あるようで掴めきれず、すぐに消えてしまうだろうという焦燥感さえある。
きっと彼女は村から出ても幸福にはなれない。
物語は読んだ人の数と同じだけ物語の意味があって、数年、数十年後に再度読まれることがあればまた違う意味となり得る。
でもいまのところわたしの意味はそれだけ。
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