今日あったこと 2024/02/10

飛車ぷよ

観戦での参加。本当は早めに行くつもりだったけど前日が徹夜だったので昼まで寝ることにした。

会場にはちょうどメイン大会が開始するくらいのタイミングで到着して、前日のツイートから「来ないと思ってた」と何回か言われた。

今回の大会の予選はスイスドローで、7回戦までやるらしい。トーナメント表を見ながら、試合の終わった人たちと話していた。

今日はいつもより人が少なくてストレスフリーな大会だった。中身がほぼ知り合いだったとしても人混みってそれだけで結構ストレスなんだな。

映画『カラオケ行こ!』(ネタバレあり)

好きな漫画家の短編が実写映画化されていたので観に行った。
タイムラインで話題になっていたけど、騒いでいるのは基本女オタクだったので、「オタクはすぐデカい言葉で褒めるから、普通からそこそこ良作くらいの映画だろう」と踏んでチケットを買った。

その日の最後の上映で、終わるころにはもう終電もない時間のレイトショーだったから、ほぼ空席で非常にアドが高かった。ネカフェに宿をとってレイトショー、これからもたまにやるかもしれない。

結論から言うと、とてもいい映画だと思った。

原作にはないキャラクターや展開が追加されていたり、エピソードの位置を入れ替えたりしていたんだけど、原作にあるテーマを補強したり、テーマをしっかり押さえつつ実写映画化にあたって製作陣が解釈したキャラクターの掘り下げや再構成のような描写を増やしていて、鑑賞していて違和感は特になかった。
なんなら原作にないセリフでも、そのキャラクターがいいそうな感じを演出するのがとてもうまくて、製作陣の原作理解度の高さを窺えた。
特に綾野剛の演技が凄くて、原作とは全然見た目が違うのに「成田狂児だ……」と思わせる説得力があった。

このあとネタバレを含む好きだったシーンを書くからまだ観てない人はこの辺でブラウザバック推奨かも。

好きな改変の話をします。
映画版カラオケ行こ!は原作と比較して改変されている箇所が多々ある。
合唱部周りのキャラクターの性格がかえられていたり、聡実の両親のエピソードが追加されている。
おそらく映画としての構成や演出、キャラクターの掘り下げをよりよくするために追加されたりエピソードの登場箇所を変更しているんだと思われ、その目論見は成功しているように思われた。

好き改変①:シャケの皮と聡実の親父(晴実)

シャケのシーンについてはもう語るまでもない(語る)。家族愛の表現としてシャケの皮をあげるという表現に、なぜ今までの人生で出会わなかった(忘れていた)のかが不思議で、この表現に出会えていなかった今までの人生経験の薄さにショックを受けた。ぼくは全然創作に触れていないんだ。情けねぇよおれ。

あと父親についての描写がすごく増えていて、聡実の基本的に善性なんだけど不器用で生きづらそうなところは父親に似てるんだろうなと感じた。

彼の父親は鮭の皮を貰えるくらい愛されていて、きっと聡実もそうなっていく。でも聡実は多分父親より賢くて繊細なせいでいろんなことを考えてしまって、鶴亀柄の傘や鮭の皮のような素朴な愛情に気付けなかったり、悪い人間に傷つけられたりしながら生きていくんだと思う。

好き改変②:聡実の部活周り

聡実は合唱部で、声変わりを迎えてもうソプラノパートを歌えないかもしれない、というのが彼の目下の悩みでストーリー上の重要なフックの一つなんだけど、原作だとあまり部活の部分には触れられておらず、クライマックスの声の掠れに繋ぐための設定の一つでしかない印象だった。

映画ではここの部分をかなり手厚く描いてくれていて、後輩の和田くんの性格もちょっと変わっていて、和田から聡実への感情の矢印が大きくていいよね、となった。聡実から和田の矢印は全然向いてないのにね。聡実は本当に和田のことを何も考えていないし、和田も逆に聡実のことを全然理解しようとしていなくてかわいかった。
映画の和田は自分の中にいる"岡先輩"の影をずっと追うんだけど、現実の岡聡実は和田の思うような完全無欠ソプラノモンスターではなく変声期を迎えたただの中学生で、ヤクザとカラオケ行ってて、部活をサボって古い映画を観て友達とだべる1人の少年でしかない。
和田はそのギャップにずっと悩まされてるんだけど、聡実はその悩みの部分に全然意識が向いていなくて、「後輩が、自分が部活をサボったことに怒っている」くらいの認識で軽く謝罪するから火に油注いで余計にこじれている。

この構図は聡実と狂児の関係の中にもある構造で、(続く)

好き改変③:狂児にお守りを渡すシーン

憧れを抱く方が憧れの存在に自分の気持ちを理解してもらえなくて……という和田と聡実のエピソードは、その直後のお守りを渡すシーンに繋がる。

和田、聡実、中川さん(副部長の女の子)のやりとりを見た狂児は「青春だなあ」と聡実をからかい、彼の怒りを買ってしまう。

変声期という悩みや、思春期の子供社会という独特な世界、自分の未熟さや無力感を理解しようとすらしてもらえず、「大人が子供をからかう構図」を演じることである種いつも通りに接してくる成田に怒ってしまうんだけど、これ大人だったらやっちゃうんだよな。
大人ってあんまり人の悩みを真面目に聞けないというか、基本的に他人のパーソナルな領域に踏み込みすぎるのはよくないとされる社会だし、まして狂児はヤクザの自分が踏み込んでいい領域とは思ってないんだと思う。聡実はもうとっくに心を開いていて踏み込んで欲しいんだけど、成田は自分のヤクザという肩書きの持つ意味を理解しているので聡実の領域には(おそらく意識的に)踏み込まないようにしているように思える。

でも、そこまで全部理解している人たらしな大人の男なので、和田と聡実のような形ではなく、その後自然と仲直りができるようになるコミュニケーションをしっかりと取れる。でも聡実の悩みには踏み込まない。ここで行かない(行けないのかも)のが成田狂児。

あと、これは映画の描写の話で、怒って学校の中へ戻ろうとする聡美に狂児が「げんき、くれるんじゃないの」と声をかけるシーンがあるのだけど、このシーンが原作に出てこないのが信じられないくらい成田狂児でびっくりした。原作だとたぶん「聡実くん」と一言声をかけるけど聡実は返事をしてくれない、みたいなコマと対応しているシーン。
綾野剛の演技力なのか脚本家の腕なのかその両方なのかわからないけど、成田の人たらしな部分をこれでもかと詰め込んだ一言だったと思う。見事だった。

さて、もうちょっとこのシーンについて語る。
お守りを自分に投げつけて帰っていく聡実を狂児は「やっちゃったなぁ」みたいな目で見て、その直後に謝罪のラインを送るんだけど、このシーンは原作だと「普段敬語なのに怒るとフリーザみたいだ」とふざけた後に「ごめんな」と送っていて、映画だとこのメッセージの送信順が逆になっている。
原作はメッセージを送った後に「ガキやな〜」「ククク」と笑う狂児のコマがあるんだけど、映画ではカットされていて、メッセージの送信順と合わせて原作より狂児が聡実に向き合ってあげている印象を与えている。この「ガキやな〜」が聡実に向けられたものなのか狂児自身に向けられたものなのかは原作だと解釈の余地があると思うんだけど、映画だと割と一意に定まるような描き方なんじゃないだろうか。
たぶん観客の理解度を勘案したり綾野剛の演じる狂児の印象にはこっちの方が合っていると判断したためだろう。正解だと思う。

和山やま『カラオケ行こ!』(ビームコミックス)より

ほかにも感想がないことはないけど、パッと出てこないので一旦この辺で終わろうと思う。特に読み返してもないから乱れた文章をしているかもしれない。でもまぁそれでいい。思い出したらまた書くかも。


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