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顔と名前を持った匿名の誰でもない誰か。『レゴ(R)ムービー』を見てくれ

Twitterで芸能人が「あなたみたいに匿名で臆病な人と、名前と顔を晒して発言している私は違うんです。匿名で私に指図しないで下さい」みたいなことを言ってるのを見た。

いやだな、と思った。おれもネットには顔と本名を(ほとんど)明かしていない半”匿名の臆病な人”だ。

そのことを何も恥ずかしいとは思わない。インターネットに顔と実名を晒すのは誰だって躊躇するし、それこそ「顔と名前を晒している人」が面倒事に晒されているのをみると、「ああ、おれはこんなふうに顔と名前を出すのは面倒だな」と思う。

だからと言って、「顔と名前を晒している人」が「勇敢で、偉くて、発言する権利の強い人」だとは思わない。

半匿名で顔と名前を隠すのは「普通」のことだ。「普通」で「特別で無い」ことは「弱い」ことではないし臆病なことでもない。「普通」の感覚を持った「普通の人」の選択だ。顔と名前を晒しているのはハッキリ言って「特別な人」。もっと言えば「異常な人」だ。

インターネットの強いところは「顔と名前を晒している異常者」だけでなく、普通の感覚をもった普通の人が「誰でもない誰か」になれることだ。そしてインターネットのマナーとは『インターネットの向こうの「誰でもない誰か」は「顔と名前を持った普通の誰か」がいることを想像する』ことだ。

「名前を明かしていない」「個性を明かしていない」ことは「名前が無い」「個性が無い」ことではない。インターネットの向こうの「見えない誰か」も名前と個性を持った血の通った「誰か」であるのだ。その想像力を持つことがインターネットには必要なのだ。

いや、インターネットに限らない。この世界は「血の通った名前を知らない誰か」の集まりだ。その一人一人が「何かしらの個性を持った、血の通った誰か」なのだ。「自分が名前を知っている人だけがいる世界」「自分が個性を知っている人だけがいる世界」なんて無いのだ。「名も知らぬ誰か」「なんでもない誰か」がめしを食って、うんこしっこして、そういうところまで想像力を働かせる必要があるのだ。


話は変わる。どうでもいい話だ。昨日TSUTAYAでレンタルしてきた『レゴ(R)ムービー』という映画を見た(さらにどうでもいいけどこのカッコアールは無くっちゃいけないんだろうか)。

この映画、めちゃくちゃ面白い大傑作映画なのだが、一部を紹介する。主人公は「個性のない建設作業員のミニフィグ・エメット」だ。主人公エメットはひょんなことから”選ばれし者”として、レゴブロックの世界を救うため、様々な世界を渡り歩く大冒険を繰り広げる。その中で、彼は「個性的でクリエイティブで創造性に溢れたマスタービルダー」というキャラクターたちと出会う。そして「個性的でクリエイティブ」な彼らは選ばれし者であるはずの主人公エメットの無個性っぷりに呆れ、失望する。

だが中盤。主人公たちのピンチの場面。「個性的でクリエイティブで創造性にあふれている」彼らは思わぬ弱点を見せる。彼らは「個性的でクリエイティブで創造性にあふれている」ことに縛られているのだ。「個性的であること」が彼らを縛る不自由さとなっているのだ。そこで「無個性の主人公」は無個性であることを活かし、大活躍をする。

彼は「どこにでもいる誰でもない無個性な人」だからこそ、「だれもがもつ創造力」で「何にでもなれる」のだ。

これ以上のあらすじは省く。Amazonプライムでちょうど配信が始まったから見てくれ。

おれはおととい、Amazon配信をしてないのを確認して、わざわざTSUTAYAへでかけてレンタルしたがその矢先にプライム配信が始まった。

この世界は「誰でもない誰か」であふれている。「誰でもない誰か」たちは各々好き勝手に飯の献立を考えたり、明日は何をしようかと考えたり、うんこしっこしたり。各々だ。誰もが「誰か」であり、知ったこっちゃないし、知らせるべきことでもないし、それはいいことでも悪いことでもない「普通」のことなのだ

さらにどうでもいい話。明日はおれ『レゴ(R)ムービー2』を見に出かけようと思う。昼飯は何を食おうかな。そしてカッコアール。なんで必要なんだろうな。まあいいや。どうでもいい。この世界にはどうでもいいことがあふれている。そのすべてを気にする必要はないし、そのすべてを「知らないこと=無いこと」と思い込んでもいけない。

ナンバーワンにならなくてもいい。オンリーワンにならなくてもいい。ワンオブゼムで世界はあふれているし、ワンオブゼムがたくさんあふれてこの世界は成り立っている。LEGOは2*4の長方形だけでもいろんなものが作れるし、部品の種類が増えればさらに色々なものが作れるのだ。

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