説教おやじ

 若さは、相対的である。若年者同士の会話で彼・彼女は若いと形容する。一方、その会話を俺のような年長者が揶揄する。さらにその発言を拾って指摘する理屈家ーー延々と繰り返される。

 意識せずに時間を喰うと、知っていることも増えてくる。知らないことを知っている世代とは話も合うが、知らないことを知らない世代とは分かち合えない。

 知らないことを知らないと答えると、俺は咎められた。対して、知らないことを知っていると、喜ばれた。だから、その度に空っぽの頭に未体験の空気を詰め込んだ。そんな調子で頭はパンパンに膨らませていくと、知っている世代も俺をわかる奴だと扱い始めた。

 空っぽの頭が開けられたのは、知らないことを知らない世代に出会ったときだった。知らないことに口を出したとき、俺は勘付いた。空気だと思っていたものが知らず知らずのうちに俺自身を構成していたこと。そして、開けられてしまえば、底にはひとしずくも中身がないということにも。

 思えば、知らないことを恥じる必要はなかった。知らないことを知らない。それが若さだとは言い切れないが、知らないことを知ってしまっている人は少なくとも老いている。そして、知らなかった頃の自分を忘れ去り、知らない世代を咎める人は、ただの説教おやじだ。

 空気で満たされた瓶も、開けられてしまえば空っぽの瓶だ。空っぽなら、また一から満たせばいいだけのことである。とはいえ、蓋を誰かの手で開けられるーーまして、自ら蓋を外して空っぽだったかどうかを確認する勇気など持てそうもない。

 結局、俺は開きかけた空気瓶に慌てて蓋をして、それを後生大事に抱えたまま説教おやじとなる。


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