『芸大生の挑戦』

 芸大という場所は個性の集まりだ。学生は学校一の変人が集まったようだし、先生もここでなければ生きていけないのではないか?と思うような人ばかりだった。

 学生は各々テーマを決め、その表現を目指して創作活動に取り組んでいる。私は絵画。小さい頃から絵を描くのが好きで、何度もコンクールで入賞した。それが高じて芸大に来ている。

 自分の感性に自信を持って入学したものの、周りのレベルは総じて高かった。絵の技術もさることながら、考え方も立派で、作品のテーマもしっかりと見据えていた。

 私は今まで単に絵が好きだから描いてきたが、これといったテーマは持っていなかった。主に風景画を描いているが、そこに深い意味付けやアイデンティティはなかった。

 そのうちに描けなくなっていった。課題はどうにかこなすが、私は何を描いているんだろう、と自問するようになっていた。時には好きな絵が描けないこともあった。

 いわゆるスランプというやつなのだろうか。このままではいけない。単位も取れなくなるし、何よりも大好きなことが出来なくなるのが辛い。

 アパートで真っ白いキャンバスを見つめる。何も描かれていないキャンバスをしばらく見ていて、ふいに思った。

 白い…何もない…これは『無』?全ての物事は『無』から生み出される。これをテーマにしてみようか…。

 そのために何をすべきか。1週間考えて、私自信が一度『無』になってみたら、という結論が出た。そうすれば何かが生まれるのではないか…?

 リセットしよう。極力『無』に近づいてみよう。

 まずは目に見える『部屋』という空間から、不必要な物は処分することにした。無駄な家具や服、読まない本を売り、卒業アルバムなど普段滅多に見ない物は実家に送った。

 一通り片づけたが、それでも何も変わらなかった。まだ何かが足りない。そこでハッとした。『私自信が無に近づく』はずだったのに、気づけば部屋という外面を無にしたに過ぎない。私が無に近づいていない。どうすれば良いだろうか…。

 たまたまテレビを付けたら、尼僧が映っていた。淡々と語る彼女からは、何かを超越したものを感じた。-これだ!髪を剃ってみよう!髪を『無』の状態にすれば、何か違ったものが見えかくるのではないか…。

 だが、すぐ我に返った。髪を剃るなんて正気じゃない。私は物心付いてからは一度もショートにしたことすらないのに、あんな風にツルツルになるなんて考えられない。

 しかし尼僧の言葉、品位、オーラは凄かった。私はもちろん出家する気はないが、一度この髪を剃ってみたら、何かが生まれてくるのではないか…。

 髪を剃るというのがどういうことなのか、すぐに動画を探してみた。ロングヘアの女性がチャリティーで丸坊主にするものが出てきた。バリカンで刈られ、あっという間に丸坊主になっていた。

 やだ…バリカンであんな風にやられるんだ…。

 動画の女の子たちは、大体笑っていた。髪を刈られているのに、なんであんなに笑っていられるのだろう。信じられない。綺麗なブロンドが惜しくないのだろうか。

 鏡の前で髪を梳かしてみる。サラサラの黒髪が流れる。この髪をバリカンで坊主に…一体どんな感じなんだろう。痛くないのかな。頭の形は大丈夫だろうか。その上剃刀で剃るなんて想像出来ない。

 なにも髪を剃らなくてもいい。忘れることにしてお風呂に入った。

 いつものように長い髪を洗う。シャンプーをたくさんつけて丁寧に洗う。お風呂から上がると髪を乾かす。いつもの作業だが、ふと思った。もし髪を剃ってしまえば、この煩わしい作業もなくなる…。

 髪を乾かし手入れをする時間は、有に30分を超える。もしスキンヘッドにすればその時間を創作に使える。髪を剃るのも悪くないのかもしれない…。

 今の私に必要なのは、お洒落とか彼氏ではない。絵を描くエネルギーだ。将来にも関わってくる。たかが髪を剃るぐらい、どうってことないのではないか?髪はまた伸びるし、気持ちも吹っ切れるかもしれない。それに芸大は奇抜な髪型の人ばかりだから、スキンヘッドにしたところでそれほど目立たないだろう。

 髪を切る怖さよりも、スランプから脱却した先の未来に思いを馳せ、眠りについた。

 翌日。たまに行く美容室に電話をし、スキンヘッドにしてくれるかと聞いてみることにした。だがスマホを手にしても、なかなかかけられない。こんなこと聞くのも恥ずかしい。しばらく逡巡した後、思い切ってかけてみた。しかし美容師は剃刀を使えないからとあっさり断られてしまった。

 そうなると床屋になる。よく「レディースシェービングをやっています」なんて書いてあるが、入ろうと思ったことなどない。だが髪を剃るとなると、床屋に行くしかないのか…。そもそも女の髪を剃っくれるのだろう?

 一件だけ行ってもいいかなと思う床屋があった。女性の理容師さんが働いているのを見たことがあった。男性に髪を剃られるのは恥ずかしいけれど、同性だったらまだ耐えられる。

 駅前のそのお店に向かうが、なかなか入れない。何度かお店の前を往復して、勇気を出して入った。

 初めて入る床屋。美容室とは違う雰囲気に飲まれつつ、受付を済ませ待合の椅子に座る。雑誌なんか読む気にはなれず、カットの様子を見る。理容師さんはバリカンを持ち、男性客の髪を刈り上げ始めた。

 美容室の物よりも大きいバリカン。どんどん刈られていき、短い刈り上げが出来上がっていく。ああやって刈るんだ…ドキドキした。私はあのバリカンで丸坊主にされるんだ…どうしよう。凄く怖い。止めておこうか…。

 でもそれではなんの解決にもならない。あれだけ考えて決めたことだし、スランプ脱出のためには髪なんて大した問題ではない。そう決心したじゃない!そう心に言い聞かせて、気持ちを奮い立たせた。

 やがて自分の番が来た。受付で女性の理容師さんをお願いしていたので、その人が担当してくれた。とても優しそうな人だ。この人なら安心出来る。
「こんにちは。ご来店ありがとうございます。今日は顔剃りですか?」
「いえ、カットをお願いします。」
「カット…ですか?お客様のようなお綺麗な方でしたら、床屋よりも美容院の方が良いと思いますが…。」
「違うんです。床屋さんでないとだめなんです。」
「それは…?」
 ドキドキする。次の言葉を言えば、すべてが決まってしまう。のどがカラカラに乾いていたが、意を決して言った。
「剃って下さい。」
「えっ?今なんて…?」
「この髪を全部剃って…スキンヘッドにして下さい。」
「こんなに長い髪を…何かあったのですか?」
「…私、芸大生です。絵を描いています。でも最近スランプで、ほとんど描けなくなってきて。一度何もかもリセットしてみようと思ったんです。」
「そのために髪を…?」
「はい。まずはこの髪を失くして外見をリセットすれば、何かが見えてくるかもしれないと思って、今日来ました。お願い出来ますか?」そう言って唇をキッと結んだ。
「少しお待ちください…。」

 お姉さんは店長らしき人と相談している。断られるかもしれない。もしそうなったら、ここまで来た私の勇気は何だったのだろう…。

 OKが出たらしい。胸の高まりが抑えられない。これから髪を剃られるんだ…。口から心臓が出そうだった。
 
 ケープをかけられる。バリカンを覚悟したが、まずはハサミでバッサリと切られた。「短い…」思わずつぶやいた。背中まで届く髪が首筋で切られた。一度にこんなに切ったことはない。すごくショックだ。お姉さんのハサミはためらいなく切り進めていく。程なくしておかっぱ頭になった。
 
 そこでお姉さんは離れ、バリカンを持って戻ってきた。いよいよだ。このバリカンが入ったら、もう後戻りは出来ない。やっぱり怖い。今ならボブで仕上げてもらうことも出来る。一度でもバリカンで刈られたら、丸坊主になるしかない。「やめて!」と喉元まで出かかった。しかしそれを言ってはいけないと、無理に自分に言い聞かせていた。
 
 前髪をそっと掴み、バリカンのスイッチが入れられる。ウィーンと音を立てる。怖い。逃げ出したい。でもここで逃げたら何も変わらない。ぐっと唇を噛みしめ、その瞬間を待った。

 バリカンが前髪に入った。物凄い衝撃。バリカンが離れると、髪がごっそりなかった。
 
 思わず声が出た。自然と涙が頬を伝った。あれだけ覚悟してきたのに、どうして涙なんか出るのだろう…。

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