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エリック・クラプトン

来日中のエリック・クラプトン、ミュージシャンから見たスゴさは? 平井 大が熱弁
2023/4/19(水) 17:04配信 J-WAVE NEWS
シンガーソングライターの平井 大が、エリック・クラプトンとの出会いや演奏の魅力について語った。

平井が登場したのはJ-WAVEで4月5日(水)、4月6日(木)に放送された『DIG UP!』(ナビゲーター:藤田琢己)。J-WAVEがおすすめするイベント情報をお届けするコーナーで、2日にわたってエリック・クラプトンを特集した。

ミュージシャンとして感じる、エリック・クラプトンのスゴさ
平井大

エリック・クラプトンは4月15日(土)より合計6日間、日本武道館で「黒澤楽器店 MARTIN GUITAR Presents ERIC CLAPTON LIVE AT BUDOKAN 2023」を開催する。平井はまずエリック・クラプトンとの出会いや演奏の魅力について語った。出会いは「すごく小さいとき」だったという。

平井:僕の実家ではカントリーやブルース、ハワイアンがかかっていることがすごく多くて、そのなかにエリック・クラプトンさんの曲も流れていて。自然に流れているなかで、自分の耳がキャッチしたという感じでした。

藤田:エリック・クラプトンは1974年から日本武道館で96回公演をおこなっています。平井さんは96回のうち、どこかで観られた経験はありますか?

平井:僕は1回だけ観させていただいて。映像や音源で聴くのとは全然違うなという、生ならではの感動をすごく感じました。

藤田:ミュージシャンとして、アーティストとしてエリック・クラプトンを聴いたときに、どんなすごさや魅力を感じますか?

平井:ギターソロで言えば、メロディだけでそこに自分の感情であったりとかバックボーンだったりとか、そういうものは伝えにくい部分ではあるんです。だけど、エリック・クラプトンさんのギターソロって彼の持っている感情だったりそのときの気持ちだったり、そういうものが乗っかってきているような気がして。それが自分にも届いてくる印象があります。すごいなと思いますし、尊敬する部分でもあります。

藤田:歌詞とメロディはすぐにきますけど、ソロになったときにさらに感情が加わってくるんですね。

平井:僕もそういうソロができたらいいなと思っていつもライブで演奏したりしているので、本当に影響は受けているんじゃないかと思います。

藤田:いまとなっては同じアーティストですけど、クラプトンのライブはどんなところが魅了されましたか?

平井:憧れの人が目の前でギターを弾いているという、その状況だけで感動できるという感じでした。もちろん演奏もすばらしいですし、またバックバンドのみなさんのサポートもすばらしい。彼の持っている歴史のなかの1ページを自分が見ているというか、そういう感動がありました。

平井自身がライブで観たエリック・クラプトンについて熱く語る一幕もあった。

平井:僕も日本武道館で観たことがあります。一言で言うと神々しかった! 僕が長く聴いていたこの曲は、本当にこの人から紡がれてきているんだなという感動を覚えた記憶があります。ふわふわした気持ちで全編を観ていた気がします。目の前にいるのが本物なんです。

そんな平井はエリック・クラプトンのライブパフォーマンスの魅力についても語った。

平井:もちろん歌もそうなんですが、そのときどきのギターのプレイがまったく違ってくるというのは彼の魅力かなと思います。ミュージシャンって気分で変わっていくんだと思うんです。そのとき自分が表現したいものって全然変わってきますから、その変化がすごくエリック・クラプトンさんはわかりやすくてそこも魅力ですし、そのときどきの感情がライブに表れるんじゃないかなと思います。

藤田:ときにものすごいブルースだったり、ときに非常にポップな曲だったりということもありますよね。特に好きな曲はありますか?

平井:全部好きですが『アイ・ショット・ザ・シェリフ エリック』でしょうか。この曲はもともとボブ・マーリーさんの曲ですが僕もカバーさせていただきました。やっぱり聴くといいですよね。僕はエリック・クラプトンさんバージョンの『アイ・ショット・ザ・シェリフ エリック』が大好きで。この曲のライブのギターソロはすごく格好よくて、またコーラスの方とのギターソロの掛け合いがあるのですが、そこも見どころかなと思います。

藤田:これは生で観たくなるお話をいま伺いました。まさに文字通り伝説のアーティストのライブを見逃さないようにしてください。

「黒澤楽器店 MARTIN GUITAR Presents ERIC CLAPTON LIVE AT BUDOKAN 2023」の詳細はJ-WAVEのイベントサイトまで。
また、今回トークをした平井大は、2023年5月27日(土)にSENNAN LONG PARK、2023年6月17日(土)にZOZOマリンスタジアムでのライブを控えている。詳細は公式サイトまで。

『DIG UP!』ではJ-WAVEがおすすめするイベント情報をピックアップして紹介。イベント関係者や出演アーティストのコメントなどでイベントの魅力を伝える。放送は月曜から木曜の18時50分から。



伝説の「クリーム」(エリック・クラプトン)

詳細は「クリーム (バンド)」を参照

クリーム - 左から、ベイカー、ブルース、クラプトン(1966年)


ウイキペディア


クラプトンは1966年7月にブルースブレイカーズを去り(ピーター・グリーンが代わりに加入した。)、ドラマーのジンジャー・ベイカーに誘われて、ベースのジャック・ブルース(ブルースはかつてブルースブレイカーズ、グラハム・ボンド・オーガニゼーション、マンフレッド・マンに所属していた。
と共にクリームを結成した。クリームは初期のスーパーグループの一つであった。
クラプトンはクリームを結成する以前は、アメリカでは余り知られていなかった。彼は「フォー・ユア・ラヴ」がアメリカのトップ10入りする前にヤードバーズを去り、アメリカではショーに出演したことが無かった。クリーム在籍中、クラプトンはシンガー、ソングライター、ギタリストとして成長し始めたが、バンドのリードヴォーカルはブルースが大部分を担当し、作詞家のピート・ブラウンと一緒に曲の大半を書いた。クリームの最初のギグは1966年7月29日にマンチェスターのツイステッド・ホイール・クラブで行われ非公式な物で、正式なデビューはその二日後、ウィンザーのナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバルであった。クリームは大音量のブルース・ジャムと、ソロのライブステージでその永続的な伝説を確立した。

1967年の初めまでに、イギリスで出現したブルースロックのファンは、クラプトンをイギリスのトップギタリストとして描写し始めた。しかしクラプトンは、アシッドロックを吹き込んだギタリストであるジミ・ヘンドリックスの登場で、彼がライバルであることに気がついた。ヘンドリックスは、フィードバック奏法とエフェクトペダルを使用して新しいサウンドを作り出した。ヘンドリックスは1966年10月1日にセントラル・ロンドン・ポリテクニックで行われたクリームのライブに出演し、その間彼は「キリング・フロアー」のダブルタイムバージョンを演奏した。クラプトン、ピート・タウンゼント、ローリング・ストーンズやビートルズのメンバーを含むイギリスのトップスター達は、ヘンドリックスの初期のクラブパフォーマンスに熱心に参加した。ヘンドリックスの到着は、クラプトンのキャリアの次の段階に即座に大きな影響を及ぼした。

クラプトンのザ・フール・ギター(レプリカ)、そのデザインと有名な「ウーマン・トーン」は1960年代のサイケデリックロック時代の象徴であった。
クラプトンがアメリカを初めて訪れたのは、クリームのツアーでのことであった。1967年3月、クリームはニューヨークのRKOシアターで9回のライブを行った。クラプトンによると、1964年製の彩色されたギブソン・SG - 「サイケデリック・ファンタジー」ザ・フール - は、RKOシアターでデビューした[35]。クラプトンはそのギターを『フレッシュ・クリーム』の後、特に『カラフル・クリーム』で多用し、バンドが解散した1968年まで使用した[36]。「ザ・フール」は世界で最も有名なギターの1つであり、サイケデリックな時代を象徴している[36]。彼らは1967年5月11日から15日までニューヨークで『カラフル・クリーム』を録音した。クリームのレパートリーはハードロック(「アイ・フィール・フリー」)から、ブルースベースの長いインストルメンタルジャム(「スプーンフル」)までさまざまであった。『カラフル・クリーム』にはクラプトンの灼熱のギターライン、ブルースの急上昇するボーカルと際立った滑らかなベース、ベイカーのパワフルでポリリズムのジャズの影響を受けたドラムが収められた。一緒に、彼らの才能は影響力のあるパワートリオとしてクリームを確立した。クラプトンの声は、フランク・ザッパのアルバム『ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー』のA面1曲目、「アー・ユー・ハング・アップ?」とB面1曲目「鼻で記憶している蒸気オルガン音楽」で聞くことができる。

28か月でクリームは商業的な成功を収め、数百万のレコードを売り上げ、アメリカとヨーロッパでライブを行った。彼らはロックにおける演奏者の役割を再定義し、熟練した楽器演奏と長いジャズスタイルの即興セッションを強調した最初のブルースロックバンドの1つであった。彼らのアメリカにおけるヒットシングルには、「サンシャイン・ラヴ」(1968年、第5位)、「ホワイト・ルーム」(1968年、第6位)、「クロスロード」(1969年、第28位)などがある。「クロスロード」はロバート・ジョンソンの「クロスロード・ブルース」のライブバージョンである。
クリームは当時の最も偉大なグループの1つとして称えられ、ギターの伝説としてのクラプトンの称賛は新たな高みに達したが、スーパーグループは短命であった。ドラッグとアルコールの使用は3人のメンバー間の緊張を高め、ブルースとベイカーの対立は最終的にクリームの解散につながった。バンドの2回目のアメリカツアーに対する非常に批判的なローリング・ストーン誌のレビューは、解散のもう一つの重要な要因であり、それはクラプトンに大きな影響を与えた。
クラプトンはまた、ザ・バンドのデビューアルバムである『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の革命的なアメリカーナサウンドが、クリームを去るという決定に影響を与えたと考えている。

クリームのラストアルバム『グッバイ・クリーム』には1968年10月19日にロサンゼルスのフォーラムで行われたライブが収められ、解散の直後にリリースされた。同作にはクラプトンとジョージ・ハリスンが共作した「バッジ」が収められ、これはシングルでも発売された。クラプトンはヤードバーズ時代にロンドン・パラディアムでビートルズと共演し、そこでハリスンと出会い、二人は親しい友人となった。
1968年、クラプトンはビートルズの『ホワイトアルバム』でハリスン作の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」に参加、リードギターソロを演奏した。ハリスンのソロデビューアルバム『不思議の壁』はクラプトンが参加した初のハリソンのアルバムである。クラプトンは契約上の制約のため、ハリスンのアルバムではほとんどクレジットされず、またクリームの「バッジ」でハリスンは「ランジェロ・ミステリオーソ」としてクレジットされた。二人はしばしばお互いのライブにゲスト出演し、共に演奏した。2001年にハリスンが死去してから1年後、クラプトンはコンサート・フォー・ジョージの音楽監督を務めた。

1969年1月、ビートルズはゲット・バック・セッションでメンバー間の緊張感が高まり、ハリスンは数日間グループから離れた。ジョン・レノンはハリスンが戻らなかった場合、クラプトンと一緒にプロジェクトを完了することを提案した。セッションの撮影ディレクターであるマイケル・リンゼイ=ホッグは、後に次のように回想している。「ジョンがクラプトンについて言及したとき、私はそこにいた - しかし、それは起こらなかった。エリックはビートルズになっていただろうか? いいえ。ポールはそこに行きたくなかった。彼は解散を望まなかった。それからジョージは戻ってきたんだ[42]」クラプトンはビートルズの4人全員と仲が良かった。
1968年12月、彼はローリング・ストーンズの『ロックンロール・サーカス』で、この日限りのグループ、ザ・ダーティー・マックの一員としてレノンと共演した。

クリームは1993年に一時的に再結成し、ロックの殿堂入りの記念ステージで演奏した。2005年5月には完全に再結成し、ロイヤル・アルバート・ホールでの4回のコンサートはチケットが全て完売した。その年の10月にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで3回のショーを行った。ロンドンでのショーは『リユニオン・ライヴ 05』として2005年後半にCD、LP、DVDでリリースされた。

ブラインド・フェイス、デラニー&ボニー&フレンズ
詳細は「ブラインド・フェイス」および「デラニー&ボニー」を参照

ブラインド・フェイス - 右端がクラプトン(1969年)
1969年に結成されたクラプトンの次のグループであるブラインド・フェイスは、クリームのドラマーであったジンジャー・ベイカー、トラフィックのスティーヴ・ウィンウッド、ファミリーのリック・グレッチで構成され、アルバムを一枚発表し、アリーナサーキットツアーを1回行った。このスーパーグループは1969年6月7日にロンドンのハイド・パークで10万人のファンの前にデビューした。彼らはスカンジナビアで何回かのライブを行い、7月にはアメリカツアーを行い、そのチケットは全て完売した。デビューアルバム『スーパー・ジャイアンツ』は8月にリリースされた。アルバムは6曲で構成され、そのうちの1曲はヒット曲「マイ・ウェイ・ホーム」であった。もう1曲「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」はクラプトンのみがクレジットされた初の曲である。アルバムジャケットの写真は銀色の宇宙船を持ったトップレスの少女であったため、アメリカで論争が巻き起こり、バンドの写真に置き換えられた。ブラインド・フェイスは7か月足らずで解散した。
ウイキペディア



「エリック・クラプトン」、いまさらなんの言葉はいりません。100歳までギター弾きでいてください。

いつもゴキゲンなクラプトン様


voice、KORGコルグ

クラプトンのザ・フール・ギター(レプリカ)、そのデザインと有名な「ウーマン・トーン」は1960年代

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