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クラシック天才ピアニスト グレン・グールド

松岡正剛の千夜千冊 グレン・グールド著作集 ~
一九五五年六月、グールドはのちに最も有名になった『ゴルドベルク変奏曲』の最初の録音を、ニューヨークのCBSスタジオで収録した。
 この年は、それまでカナダでしか知られていなかったグールドが、バッハ『パルティータ第5番』とベートーヴェン『ソナタ第三〇番』をもって、鮮烈なアメリカ・デビューをした年でもあった。

 その一月の鮮烈な演奏を聴いて腰を抜かしたコロンビア・レコードのプロデューサーは、数日後に電撃契約を結ぶ。抜け駆けだった。ところがレコーディングの曲目を打ち合わせてみて、コロンビア側の全員が呆れた。なんと、グールドは、山場なんてひとつもない、ただややこしいだけの『ゴルト
ベルク変奏曲』をレコードにしたいと言い出したのだ。

 ゴルトベルクなら、あの恐ろしいワンダ・ランドフスカが、彼女のもっと恐ろしいハープシコードによって弾いている。それが相場だとも決まっていた。
 それを何を好んでのゴルトベルクなのか。
 しかしグールドは押し切った。いま聴けば、ゴルトベルクが魔法のように壮麗な曲であることは誰にでもわかるようになったのだけれど、その当時は誰も演奏すらしていなかった。会社は渋々応じることにした。これでは売上げも見えていた。けれども、驚くのは曲名だけではなかったのだ。
 グレン・グールドは六月なのにオーバーを着込んでマフラーで首を覆い、帽子をかぶって手袋をしてスタジオにやってきた。さらに数枚のセーターが鞄につめてある。おまけに何枚ものタオルと大瓶のミネラルウォーター2本と錠剤入りの小瓶五本を持参した。

 ピアノに向かう前にグールドがしたことはもっと異様だった。まず洗面所にこもって両手をお湯に二〇分にわたって浸けた。その手を何度もタオルで拭きしだく。それから何やら声を出す。
 ピアノの前にはすでに、グールド持参の指定の椅子が用意されていた。あの有名な低すぎる椅子である。床上三五.六センチ。父親がわが子のために作った椅子だ。グールドはそこに坐り、それから声を出し、そうかとおもうと歩きまわり、そのまま録音室から外に出ていって、スタッフがやきもきしているなかを、首を激しく振りながら戻ってきた。そしてまったく何の前触れも合図もなく、突然に体がピアノになっていったのだ。
 録音室の全員が、グールドの手首が鍵盤より下にありながら、まるで飛魚のように鍵盤を動かしていくのを見て、茫然とした。
 もはや誰もが何も信じられなくなったのだが、レコードは爆発的に売れた。ミネラルウォーターはグールドがニューヨークの水を信用していなかったせいだった。 

 演奏中の恍惚
 グールドの演奏ぶりはフィルムとビデオに残っている。これが見られるのは、至福に近いものがある。ぼくも何度も何度もグールドのピアノ演奏のフィルムや白黒時代のドキュメンタリーを見てきた。
 一九六六年にユーディ・メニューインと競演している映像はとくに忘れられないものとなった。そこではグールドは顎を使って自分の手や指に合図を出し、喉をたえず動かして唇を鼓舞し、空いたほうの手を空中に文字を綴るように動かしていた。
 いや、ありとあらゆる体の部分が動いていたといったほうがいいのだろう。全身を動かしているのではない。体の個別の部位がそれぞれアーティキュレーションを担当して、演奏音楽そのものになっていくわけなのだ。
 一方、ブリュノ・モンサンジョンによるグールドのフィルムには、バッハの『フーガの技法』の演奏が収録されている。
 そのコントラプンクトゥス第一番の演奏部分を詳細に分析したフランソワ・ドゥラランドによると、グールドがあいた左手で「想像上のオーケストラ」を“指揮”しているのは、楽譜の線的な動きを追っているのではなく、シンコペーションを補っていることが多いのだという。そうだとすると、グールドは左手で楽譜を空中に解放し、それを右手で受けて弾いていることになる。
 こういう演奏家を見たことがない。インプロヴィゼーションならばぜひともミルフォード・グレイヴスをあげたいが(パーカッションであるが)、楽譜に挑んでその楽譜を作曲家の発想にまで戻し、さらにその向こうの独自の「鳴りやまぬもの」にもちこむなんて、そんな演奏があるとは驚愕だ。グールドは、どこかに「向こう」を飼っているとしか思えない。

バハマ諸島ナッソーにて
 音楽ファンにはあまり知られていないことかもしれないが、グールドはラジオ・ドキュメンタリー番組を何本か手掛けている。かなり意欲的だった。
 最初はシェーンベルクをめぐるドキュメンタリーだった。これはドキュメンタリー手法をマスターするためで、小手しらべ。ところが次の制作からは、ずっと「北」をのみ主題にするようになった。グールドには、緯度が北上するにしたがってそこに住む人間の思考や体験が特異なものになるのだという“妄想”があったようで、ドキュメンタリーではそうした北の住人を何人かとりあげて詳細なインタビューをし、これをもとに一種の音楽番組を作ろうという計画になっていた。トロントに生まれ育ったグールドならではの計画だ。
 この一連の番組は「北の理念」とよばれ、のちに「孤独三部作」として知られるようになるのだが、それが実は音楽番組だったということは、グールド以外の誰も感じていない。けれどもよくよく聴いてみると、ここにはインタビューに答える者たちの声がざわめき、重なりあい、離れあって、また寄せては返すようになっていた。
 この例に見られるように、グールドは「向こう」に何かを感じる性癖の持ち主だったのだ。そういうグールドが作曲家たちの「向こう」を演奏するのは、当然だったのである。この「グールドの北方憧憬」については、鈴木康央の『北の人 グレン・グールド』(鳥影社)が面白い。

「北の理念」
プロローグの楽譜
 グールドは言葉を尽くそうとしていた人でもある。著作集にはその証拠が随所に見えている。一九五六年に書いた『十二音主義のジレンマ』など、自分が書いたシェーンベルクについての過去の文章をスコアにして、それを別の演奏で綴っているようで、なかなか興味深いものがある。
 その言葉はまた変わってもいたし、饒舌でもあった。音楽家でこんなに喋った男はいないのではあるまいか。書簡も多い。
 死後に集積されたオタワの国立図書館にあるグレン・グールド・コレクションは二万点にのぼる。二十世紀でこれほど言葉を費やした音楽家を見つけるとすれば、たぶんピエール・ブレーズかレナード・バーンスタインくらいだろうが、そのバーンスタインが「グレン・グールドの言葉は彼の弾く音符のように新鮮でまちがいがない」と言っているのだから、これは始末が悪い。
 言葉が多いだけでなく、辛辣だった。とくにモーツァルト嫌いは有名だった。「モーツァルトの作品が嫌いだというのではない。もっと否定的だ。つまり許し難いのだ」「モーツァルトは早く死にすぎたというより、死ぬのが遅すぎた」とまで書いた。
 三五歳で夭折したモーツァルトになんてことを言うのかというほどの毒舌だが、グールドによれば、モーツァルトは長じるにつれ、気質のままに図に乗って二流の作曲家になってしまった。だから死ぬのが遅すぎたというのだ。
 モーツァルトを弾かないでそう言っているのではない。ピアノソナタ全曲を録音しているし、モーツァルトで好きなのは「ハ長調のフーガ」K三九四だけという言明もくだしている。

 グールドの言葉が多くて、辛辣だというだけであれば、これまでのようにグールドを奇人変人扱いにすればいい。
 しかし、そんなふうにグールドを“奇矯に煌めく匣“にしまっておけないのは、グールドが芸術の価値や芸術家が対面している価値の判定に異常なほどに厳密で、その厳密が今日のすべての芸術がほとんど失いつつあるものであるからだ。これをヴンターキント(神童)に特有の鼻持ちならない性癖だなどと見ては、いけない。

 たとえばグールドは、ベートーヴェンの『協奏曲第4』の冒頭を呆然とさせるほど美しく演奏してみせた。なぜなのか。この唐突な導入には、芸術作品をプレゼンテーションする者すべてが考えこんでいい問題がひそんでいる。
 またグールドは、ハープシコードではピアノのようなソステヌートやレガートを作りだし、ピアノにおいてはハープシコードに特徴的なアタックを鮮明にし、オルガンではハープシコードやピアノに特有の軽さに挑んでみせた。なぜそんなことをしたのだろうか。
 この、グールドが見せた個別のツール(ハードウェア)を扱うときに見せる「互い違い」は重大だ。
 あるいはまたグールドは、これこそがグールド最大の謎とされていることであるけれど、三一歳をかぎりに、いっさいの演奏会での演奏を拒否してしまった。わずか七年のコンサート活動だった。それも絶頂期でのリジェクトである。あとはすべて録音活動ばかり。なぜ人前での演奏をしなくなったのか。
 誰もがこの謎に回答を試みているが、あまり満足な説明はない。グールドもとくに“正解”を言わずにおいた。
 完璧な演奏を保証できないと判断したからではない。肩が痛くなったからでもない。会場の咳ばらいやカーテンコールが苦痛だったからでもない。ひとつには、演奏の自由をコンサート形式の聴衆などに聴かせたくなくなったということ、もうひとつにはナマでは「テイク2」ができないからだ。

 グールドがやってみせたことは、ぼくが感じることでいえば、きっと次の3つのことだった。
 ひとつ、様式は一挙に混淆する(そのほうがいい)。ひとつ、技術は内容を超えるときがある(技術が未熟ならば、かえって内容を殺すこともある)。ひとつ、構造は自由の邪魔をする(だからスコアの指示を読み替えなさい)。
 ここには、何があるかといえば、「比類のない芸術精度は、よく練られた逸脱をもってしか表現できない」ということが提示されている。この「精度と逸脱の関係」のメトリック(韻律法)を感じることこそは、今日のアートシーンがこっそり引き継ぐべきことだ。とくに現代美術家と技術思想屋たちは(この二つが結託しているのが、今日の最大の不幸であるが)、このことを肝に銘ずるとよい。
 では、グールドがどうしてこのような考え方をもっていたかといえば、それはグールドが天才だったから気がついたことではない。天才のほうが気がつきやすいかもしれないが、そうでなくたって、よくよく芸術と付き合えばすぐわかることである(たとえばジョン・ラスキンのように)。
 この考え方が生まれたのは、そこに「美はおもいがけなく傷つくものである」という本来の告示が秘められていたからなのだ。
 芸術家たちは美を表現するのではない。芸術家が引き受けるべきことは、美がおもいがけなく傷つくこと、そのこと自体をどう表現するかということなのだ。
 以上、雨の西麻布でブラームスとバッハを聴きながら付け足した感想である。『著作集』からは次の一文を引用しておきたい。
 「演奏者が編集者の役割を帯びることは、どんなときでも矛盾しないことである」。

 さて、ここからが、ぼくが今夜のためにとっておいた話になる。それはグールドがどんな本を好んで読んでいたかということだ。
 とはいえ、シェイクスピア、トーマス・マンの『魔の山』、ソローの『森の生活』、オースティンの『高慢と偏見』、ヘッセの小説、ストリンドベリの戯曲集、ゴンチャロフの『オブローモフ』(これはやや暗示的かもしれない)、ジッドの手法、イヴリン・ウォーのアメリカ、ニーチェの哲学(それはそうだろう)、それにユーディ・メニューインの『人と音楽』やアップダイクの『走れウサギ』などが愛読書だったからといって、とくに面白くはない。
 それならむしろマクルーハンの著作のほとんどを読み(第70夜)、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』(第449夜)のペーパーバックを持ち歩いていたというほうが、ちょっと面白い。グールドには本質的にアナキストの資質があるからだ。
 が、ぼくがここで持ち出したいのは、もっと痛快なことである。グールドが夏目漱石の『草枕』(第583夜)にぞっこんだったということだ。

 グールドが『草枕』を読んでいたことは、日本のグールド・ファンはうすうす知っていたはずである。ライナーノーツや雑誌のグールド特集には(雑誌特集では今野裕一君がやった「WAVE」が出色だった)、そのことがいつも和菓子のように添えられてきたからだ。
 しかし、グールドがどれくらい『草枕』に傾倒していたかは、横田庄一郎さんの研究エッセイが発表されるまでは、ほとんど知られてはいなかった。のみならず、ぼくは横田さんの『「草枕」変奏曲』(朔北社)を読んで、たいへんに気持ちがよかったのである。そうか、グールドをこういうふうに聴く手があったかと思ったのだ。グールドについての評伝や評論は数かぎりなくあるけれど、横田さんの「夏目漱石とグレン・グールド」をめぐった一冊が、いちばん、面白く、痛快なのだ。
 では、以下は横田さんからの受け売りを書くけれど、その前に、ぼくとグールドが唯一、共通していることを誇らしげに示しておくことにする。



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