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パリコレモデル・山口小夜子

日本の「モデル」人を世界にアピール

日本人パリコレモデル山口小夜子さん死去から12年 多くの謎を残した「死の真相」に迫る 2019年12月5日 14時43分スポーツ報知
6日放送のTBS系「爆報!THE フライデー」(金曜・後7時)では、2007年8月に急逝した伝説の日本人パリコレモデル・山口小夜子さんの「死の真相」に迫る。山口さんは世界を舞台に活躍した日本人モデルの先駆者の一人。モデルとしてだけでなく、女優やデザイナーとしても活躍。その姿は「東洋の神秘」と称され世界中から注目を浴び、多くの伝説を残し、07年8月に急性肺炎のため死去した。                 ジャンポール・ゴルチエ、イヴ・サンローラン、山本寛斎、高田賢三…。名だたる一流デザイナーたちに愛され、国内でも大手化粧品会社と12年もの間専属契約を結んでいた。プライベートは全く明かさず、年齢も非公表だった。晩年はモデル活動から退いていたが、その最期は多くの謎を残した。

画像 マイナビニュース
伝説の日本人モデル・山口小夜子さん

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パリコレデビュー 〜 

資生堂専属モデル契約京浜女子大学横浜高等学校、杉野学園ドレスメーカー女学院に通い、卒業後、1971年にプロのモデルとしてデビューし、高田賢三や山本寛斎のショーで注目を集める。1959年にルイ・フェロー(英語版)に見い出されてアジア系モデルとして初めてパリコレクションに起用された松田和子、1960年にピエール・カルダンに見い出された松本弘子に続き、1972年にパリコレクションに起用され、次いでニューヨークコレクションにも出演した。

彼女は1960年代にパリコレクションで活躍した松田和子や松本弘子のような大きな目でキュートな顔立ちのモデルとは違い、切れ長の目と黒髪のおかっぱ髪で登場し日本人ブームを起こした。白い肌に切れ長の目の美しさを作り出す繊細なアイライン、高い位置のチーク、くっきり縁取った赤いリップによる彼女のエキゾチックな顔は、ヨーロッパで熱狂的に支持され、「SAYOKO マネキン」というマネキン人形が欧米のブティックを席巻した。なお現在でもアナスイニューヨーク店で使用されている。

1973年から1986年まで、資生堂のモデルとして専属契約を結び「美」の普遍的イメージを国内外に発信していくことになる。1973年の『シフォネット』のポスターは、ハーフモデル全盛の時代に、黒髪おかっぱのいかにも「日本人らしい」モデルの登場を鮮烈に印象づけ、時代の転換点を体現した。 モデルとして活動しながら、ファッションデザインや服飾品のプロデュースも幾度となく担当。1977年には、雑誌『ニューズウィーク』の「世界のトップモデル6人」にアジア人で初めて選ばれた。

舞台・映画・ダンス・デザイン
モデルとしての活動の傍ら、舞台および映画女優としての活動も開始。寺山修司演出の『中国の不思議な役人』(1977年)の稽古で天井桟敷のメソッドに触れ、飛躍的に表現の幅を広げた後、同年に映画『杳子』、1981年には重信浩演出による半自叙伝的舞台『小夜子:山口小夜子の世界』(1980年)で主演を務める。その他、演出家 佐藤信の舞台『忘れな草』(1986年)、国際エミー賞ほかを受賞したNHK音楽ファンタジー『カルメン』(1989年)、江戸時代から続く糸あやつり人形劇団 結城座の人形たちと共演した『ペレアスとメリザンド』(1992年)など多くの舞台に出演する。

一方で、舞踏やダンスの分野にも活動の場を拡げていく。1986年にはパリ市立劇場(フランス語版)を拠点として活動する舞踏グループ 山海塾からメソッドを学び、横須賀功光の撮影による写真集『月 小夜子/山海塾』で共演。1987年には、勅使河原三郎/KARASとのコラボレーションを始め、以後ダンサーとして、1996年頃まで世界ツアーも含めて彼らと活動をともにする。

また、音楽や舞、ファッションショーが一体化した壮麗な舞台の出演者としても、林英哲、山本寛斎、和田勉、毛利臣男、天児牛大らとのコラボレーションを行った数多くの仕事がある。さらに、クリエイターとしても舞台の衣装を数多く担当。自らも出演した天児牛大演出のオペラ『青ひげ公の城』(1997年)で、衣装デザインを担当したほか、フランス・リヨン国立歌劇場で初演された、同じく天児牛大演出のオペラ『三人姉妹』(1988年)の衣装デザイン、2004年の佐藤信演出のふたつの舞台『リア王の悲劇』の衣装デザイン、結城座公演『夢の浮橋~人形たちとの<源氏物語>』の人形デザインおよび人形遣いのスタイリングも手がける。

ウェアリスト(着る人)
着物をまとい、たおやかな理想の女性を演じる一方で、小夜子は、例えば1977年の時点で、ロンドン・キングスロードの動向やパンク・ムーヴメントについて中西俊夫らと雑誌で情報交換するなど、新しいもの、オルタナティヴなものに対する強い感受性を持っていた。2000年代に入った晩年の数年は、彼女のそうした側面が遺憾なく発揮された、最も自由な時間だった。

こうした活動に、晩年は「ウェアリスト(着る人)」と名乗り、自らの身体において、ファッションだけでなく、ダンス/舞、音楽、映像、文学など諸芸術が交錯する表現を展開した。クラブカルチャーを舞台に様々な表現を始め、DJとしての活動、また多くの表現者と様々な表現に挑戦していた。 2002年、藤乃家舞(CDJ、ミキサー、FX担当)、宇川直宏(VJ担当)と『SUNZU』を結成。音楽活動としては、後にラッパーのA.K.I. PRODUCTION[注 1]とも電子音楽ライブを行っている(小夜子は、DJ・ミキサー・声を担当)。

2003年、映像作家、VJとして活躍していた生西康典[注 2]、掛川康典と、舞、ファッション、音楽、映像、朗読などが一体化したパフォーマンスを展開。山川冬樹[注 3]ら若い世代のパフォーマーたちとも積極的に共演する。これは晩年「ウェアリスト(着る人)」を名乗った彼女の、映像や音楽、空間を「纏う」という独自の表現の完成を示していた。2007年には、生西康典、掛川康典と自身の主演映画を共同監督する予定だったが、この計画は彼女の突然の逝去で断たれることになる。

一方、2005年から写真家 高木由利子と雑誌、およびWebサイトで連載した『蒙古斑革命』は、彼女が興味を持つ世代を超えた表現者たちにインタビューしていくもので、諸文化の混合した現在の日本を、自らのありのままの出自として受け止める人々の連帯がここに示されている。かつてナショナリスティックな「日本」イメージのアイコンであった小夜子。しかし彼女自身は、早くから中国や朝鮮半島も含めた各種の身体表現、衣装やメークを通して、日本だけでなく東アジア人であることと内側から向き合おうとしてきたのであり、「日本なるもの」を再定義するようなこのプロジェクトはその集大成とも言えるものであった。(Webサイト『蒙古斑革命』はサーバーダウンにより全データが消失し、しばらく閲覧できない状態だったが、2017年から「The Salvage Project of 蒙古斑革命」として、サイトの復元が行われている。)

急逝
小夜子は2007年8月14日、急性肺炎のため死去した。小夜子の葬儀は親族だけで執り行われ、9月19日にお別れの会が開かれた。 小夜子は生前、最後の出演映画となった『馬頭琴夜想曲』にて、その1週間ほど前に会ったばかりだったという、同作の木村威夫監督は小夜子について「体調が悪い様子はなかった」と語っている事から、いかに急逝だったかが伺える。

2015年、東京都現代美術館にて小夜子の生涯と携わった作品群を回顧する「山口小夜子 未来を着る人」が開催された。当時、小夜子は既に死後8年を経過しようという時の開催だったが、『山口小夜子』を知らなかったはずの世代にも熱狂的に受け入れられ、小夜子が体現したような「纏う」ということ、現在のファッションとアートの交錯を先駆するような存在となった小夜子をフィーチャーした本展は、現在にも通ずるファッションの本質についての再考としても受け入れられたのか、入場者数は5万5千人。最終日だけでも3000人を動員し、大盛況のうちに幕を閉じた。 ※資料ウィキペディア


12年~の報道(2021年で14年死後経過)

女性モデルなので、一般人では話題の人、ということではないが日本人「世界トップモデル」として知名度があった。化粧品「資生堂」専属モデルでデビューした、とある。

当時「前田美波里」がテレビ広告を席巻し、街頭ポスターが全部盗まれた、というのがニュースになった。山口小夜子とは一つ上の1948年生まれ。

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旧き良き時代、の残滓と云ってしまえば、それまでで昔は良かった回顧録になってしまうが、やはりそれなりの空気が漂っていた。

いま武田鉄矢が「昭和レトロ」テレビをやっているが、ま~あ、正直なところだろう。

つい先ほど、note記事を拝見していて、「東京五輪を外から見た私が«五輪スタイルは30年以内に消滅する»と感じた3つの理由」との記事を読んで、なるほどと、感慨があった。

マレーシアのクアラルンプール、の在住で、そこから俯瞰した記事は、日本発より、的確な指摘の場合がある。

確かに、以前とは見方が違う。さらに様々な要素が絡んで世界国経済複雑怪奇、というのは否めない。そんな中、帰結先を追っていくと決して「明るい未来」にはならない。いくら楽天主義者であっても、現況を眺めれば、いいところはなにもない。(刹那に云ってしまえば物理的金銭の多寡であり、超富裕者が現況を甘受しさらにその差を拡大している)。

そんな諸々を計算式に加算していくと、トータルは「ノアの箱舟」建造費用(いまでいうロケットか)負担捻出名簿、ということになるが、その記入欄は数十名で足りるという落胆は計り知れないモノがある。

「昭和レトロ」には、そんな屈折感は丸でなかったが(実際あったと思われるが表に出ない)道路沿いに立つコールタ塗電柱が、一際「昭和」を語り尽くしていた。

ところで「前田美波里」がいくつになったのか、しらないが、たまにはテレビにでて、あの頃を想い出さしてほしい。







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