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カナダの自由相対性

自由をもとめて

朝早く、日課の自転車に載って裏道を走ってきた。ここ数日、外気温度が急激に冷えて、すっかり冬を感じさせるが、それでも日中は春のような暑さがもどる。気を付けないとカゼでも引きそうだ。

それで思うのが、自分は今何しているのか、という自問がある。この寒いのになにしているのか、という問い、または自己嫌悪、「よしゃいいのに」、という悪魔のささやき。
だれだって、多少なりとも、そんなことはある。ただし、その幅もしくは大きさ、身の危険、といった尺度の問題で、程度というより、重大な線引き、という選択に迫られる。

けさのニュースで、それが載っていた。

香港の民主活動家の「周庭」さんが27歳の誕生日にあたる3日、カナダに事実上亡命したことを明らかにした。とニュース速報で伝えられた。
そこにはこうあった。
■国安担当が同行する形で中国の深圳で愛国主義の展示会などを見に行かされたのち、香港では警察への感謝や偉大な中国の発展を理解したことを誓う文書の提出を求められたとしています。その際にも、パスポートが返ってこない可能性などもあり「とにかく恐怖だった 」と明かしました。さらに、民主活動を抑制した「香港国安法」が施行されて以降のこの3年間について、弾圧によって「精神的な病になっていた」と沈黙を貫いていた期間の心境についても初めて触れました。 12/4(月) 0:59配信 テレ東BIZ


それとは真逆、やらないことのネガティブ評価としてランク付け、されること。
■アラブ首長国連邦(UAE)のドバイで開かれている国連の気候変動会議(COP28)で、温暖化対策に後ろ向きな国に贈られる「化石賞」に3日、日本が選ばれた。化石燃料への執着が透けて見え、見せかけの環境配慮の「グリーンウォッシュ」だと認定された。

また、いまの日本経済低迷の一因と考えられる「国内金融機関」規制を撤廃し経済活性するための切り札だった「バブル」施行の方法論。

■欧米に遅れをとっていた日本の金融市場を活性化するため、橋本龍太郎内閣が1996年(平成8)末に打ち出した金融大改革。「2001年までに東京をロンドン、ニューヨーク並みの市場に」をスローガンに、銀行、証券、保険会社の業務をがんじがらめに縛ってきた規制を緩和・撤廃し、国内金融機関の国際競争力向上を目ざした。改革の基本概念として、「フリー」(市場原理が機能する市場)、「フェア」(透明で信頼できる市場)、「グローバル」(時代を先取りした国際的市場)を掲げた。制度面では、1998年4月の外国為替(かわせ)取引の自由化を皮切りに、同年末に金融持株会社設立を解禁し、1999年10月からは株式委託手数料の完全自由化を実施した。連結会計・納税制度の導入、保険と銀行・証券会社の子会社方式による相互参入も完了。2007年12月の銀行窓口での保険販売全面解禁をもって、当初想定した金融規制のほとんどを緩和・撤廃する運びとなった。ただ改革から10年が経過しても、日本の株式時価総額がアメリカの4分の1にすぎないなど、欧米との差は依然縮まっていない。一方で中国、インド、シンガポールなどのアジア市場は急成長を続けている。このため、単に日本国内の規制緩和や制度改革だけでなく、税制や外国人の雇用問題にまで踏み込んだ市場改革が必要との声が高まっている。日本版金融ビッグバンは、東京をアジアの中核金融センターに育成するという「東京金融センター論」という形で、現在に引き継がれている。[矢野 武] コトバンク

その他いろいろあるが、後で思えば、自分は今何しているのか、という自虐積年というのに襲われないだろうか。もっとも、そんなことがわかっているなら、誰も何もしない、多分そんなことだろう。

それで、数日まえから「平家物語」を漁っていた。これも「何やてんだろうか」の一つに入る。だからおいそれとすすまない。

話しは鎌倉以前の古典だし、その時代を想定しただけでも、にわかに景色がうかばない。テレビ映画だったら「時代考証」があって、専門人らによって再現するが、それだって限界がある。

そもそも演じる役者が現代という時間空間で生きている以上、それは隠しようがなくて、言語のイントネーションとか、着ている衣装のヒダしわの本数だとか、汚れ具合とか気にしたらきりがない。
それで問題は、その「平家物語」は戯曲であってまず何種類かの脚本を吟味する必要がある。
古典の基本は写本であり、オリジナルが現存するのは殆どない。だから、写し繋がれた時間を考慮すれば、どこかの時点で改ざんだったりライターの脚色があったり、時が経てば次第にエンターテイメント化するのは当然だった。それは楔文字石板を除いて、安易に常態化することも排除できない。
また日本古典では一子相伝とか口述伝承とか、記録媒体が存在しない、という決めがあって、とても狭い領域で継がれてきた(今日的に、少子化人口減という理由で、それがなくなりつつある)。

その「平家物語」を勉強するにあたって、今ではネット検索で膨大な資料が得られる。その点では、義務教育、高校大学と同等にあると思われた。

個人的にはその何が「平家物語」かといったら、鎌倉時代の源氏一族が寵愛する「御前」白拍子で、その歴史は平家一族から継がれていて、そのことが、物語り平家と、どう繋がっていたか、という疑問があったからだ。
そして課題は、その「白拍子」の正体が、時代の文献でも詳細な記述がなく(性格上、公にならない裏社会人物)という情報のなさが災いして、実体を掴むのがほとんどむずかしい。それを表しているのが、時代変遷の推移とともに、この後継が孤絶したことだった。

検索参考によくある「白拍子」画像の派手な衣装と女男装は、まったく真理を写してない、私はそう思う。
その理由は、表わしている形骸が、巷に流布している白拍子像の描写そのものであり、疑いない、というスタイルにまったく信用ならないと思ったからだ。(雅楽演奏の直垂ひたたれを着た実体感としてそう思う)

まとめ、として 

いま自分はなにしてんだろう?、ということのパラドックスとして、「平家物語」なんだが、それは難解にして不可、という烙印が脳裏に張られている。だから、どこまで行けるかのプロトタイピングとしてやってみる。

それが自由かといったら真逆の自慰行為との二律背反にあると思われるが、そもそもこのnote記述が無償慈善アクションであって、その中にもアルゴリズムの網の目制約に呪縛されるという表現方法は、それが自由かといったら、ちがうと思う。

そこでアインシュタイン説を無理やりつかって、同じ方向に進む互いの電車内に同一の自分が向き合って時速100キロメートルで進んだとする。その二者は、何れの電車スピードが変化すれば、どちらかが下がって、その反対は先に進む。それが相対的な二者であるなら、その全体を支配する地球上での運動は、相対的にはならない。
問題は誰の視点(観測者)でみるか、ということで「平家物語」は現代の仮想物語りでなく史実の再現、という記録であって、それを語ると云うのは、実証不可という点で、史実を忠実に再現した書き物である、という物理式は、ここでは採用されれない。
そんなことは、誰にだって知ることで、それを語ったことで自由は得られない。
それを一番よく知っているのが香港の「周庭」さんと推定されるが、そこで載っている電車は山の手電環と似ても似つかぬカナダという自由だった。

「平家物語」(薩摩琵琶演奏を前提として) 解説

平家物語 解説

『平家物語』は日本における作者不詳の軍記物語である。 鎌倉時代に成立したとされ、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などが描かれている。

平家物語

保元の乱および平治の乱に勝利した平家と敗れた源氏の対照的な姿、その後の源平の戦いから平家の滅亡、そして没落しはじめた平安貴族と新たに台頭した武士たちの人間模様などを描いた。「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しでも広く知られている。

成り立ち

平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した『治承物語』(じしょうものがたり)と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。

正確な成立時期は分かっていないものの、仁治元年(1240年)に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。
しかし、『治承物語』が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、延慶2年(1309年)以前には成立していたものと考えられている。

作者

作者については不明であり、古来多くの説がある。現存最古の記述は鎌倉末期の『徒然草』(兼好法師作)で、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする。

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の譽れありけるが(中略)この行長入道、平家の物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて、語らせけり。」

その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。

この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で、中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。なお、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、『徒然草』では同人を「信濃入道」とも記している(信濃前司行長=信濃入道=行長入道)。

そのため信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物であるが、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。

諸本

壇ノ浦の戦い(1185年)現存している諸本は、次の二系統に分けられる。

盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝えてきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するもの。

読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のもの。

語り本系

語り本系は八坂流系(城方本)と一方(都方)流系(覚一本)とに分けられる。

八坂流系諸本は、平家四代の滅亡に終わる、いわゆる「断絶平家」十二巻本である。一方、一方流系諸本は壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した建礼門院が念仏三昧に過ごす後日談や、侍女の悲恋の物語である「灌頂徴」がある。

平曲

語り本は当道座に属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。これを「平曲」と呼ぶ。ここでいう「語る」とは、節を付けて歌うことで、内容が叙事的なので「歌う」と言わずに「語る」というのである。これに使われる琵琶を平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで、小型のものが多く用いられる。なお、近世以降に成立した薩摩琵琶や筑前琵琶でも平家物語に取材した曲が多数作曲されているが、音楽的には全く別のもので、これらを平曲とは呼ばない。

平曲の流派としては当初は八坂流(伝承者は「城」の字を継承)と一方流(伝承者は「一」の字を継承)の2流が存在した。八坂流は早くに衰え、現在ではわずかに「訪月(つきみ)」の一句が伝えられているのみである。
一方流は江戸時代に前田流と波多野流に分かれた。波多野流は当初からふるわず、前田流のみ栄えた。安永5年(1776年)には名人と謳われた荻野検校(荻野知一検校)が前田流譜本を集大成して『平家正節』(へいけまぶし)を完成させ、以後は同書が前田流の定本となった。

明治維新後は江戸幕府の庇護を離れた当道座が解体したため、平曲を伝承する者も激減した。昭和期には宮城県仙台市に館山甲午(1894年生~1989年没)、愛知県名古屋市に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけとなり、しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。平曲は国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。

2018年(平成30年)時点では三品検校の弟子である今井勉が生存しているだけで、今井に弟子はいない状況である。平曲にまつわる文化を研究・伝承するため、武蔵野音楽大学の薦田治子らにより「平家語り研究会」が2015年に発足。かつては約200曲あったとされるうち現在まで伝わる8曲の譜や録音の研究、地歌や筝曲の演奏家による平曲の公演などを行っている。

平曲の発生として、東大寺大仏の開眼供養の盲目僧まで遡ることが『日本芸能史』等で説かれているが、平曲の音階・譜割から、天台宗大原流の声明(しょうみょう)の影響下に発生したものと考える説が妥当と判断される。また、平曲は娯楽目的ではなく、鎮魂の目的で語られたということが本願寺の日記などで考証されている。 また後世の音楽、芸能に取り入れられていることも多く、ことに能(修羅物)には平家物語に取材した演目が多い。

読み本系

読み本系には、延慶本、長門本、源平盛衰記などの諸本がある。従来は、琵琶法師によって広められた語り本系を読み物として見せるために加筆されていったと解釈されてきたが、近年は読み本系(ことに延慶本)の方が語り本系よりも古態を存するという見解の方が有力となってきており、延慶本は歴史研究においても活用されている。

広本系と略本系の関係についても、先後関係は諸説あって不明のままである。読み本系の中では略本系が語り本と最も近い関係にあることは、『源平闘諍録』の本文中に平曲の曲節に相当する「中音」「初重」が記されていることからも確実視されている。ウイキペディア

語物としての流布目次 ニッポニカ
本来は琵琶(びわ)という楽器の弾奏とともに語られた「語物(かたりもの)」で、耳から聞く文芸として文字の読めない多くの人々、庶民たちにも喜び迎えられた。

庶民の台頭期である中世において、『平家物語』が幅広い支持を得ることができたのもこのためで、国民文学といわれるほどに広く流布した原因もそこに求めることができる。
『平家物語』をこの「語物」という形式と結び付け、中世の新しい文芸として大きく発展させたのは、琵琶法師とよばれる盲目の芸能者たちであったが、古い伝えによると『平家物語』ばかりでなく、当初は『保元(ほうげん)物語』や『平治(へいじ)物語』も琵琶法師によって語られていたらしく、また承久(じょうきゅう)の乱を扱った『承久記』という作品もそのレパートリーに加えられていたといい、これらを総称して「四部の合戦状」とよんだ。
しかし他の軍記作品は語物としては発展せず、『平家物語』がその中心とされるようになり、やがて琵琶法師の語りといえば『平家物語』のそれをさすようになっていった。

この琵琶法師による『平家物語』の語りのことを「平曲(へいきょく)」というが、この平曲が大きな成熟をみせるのは鎌倉時代の末で、この時期に一方(いちかた)流と八坂(やさか)流という二つの流派が生まれ、多くの名手が輩出した。これらの琵琶法師たちが平曲の台本として用いたのが、語り本としての『平家物語』で、一方流系と八坂流系の二つの系統に大別される。
これらに対して、読み物として享受されたのが読み物系の諸本で、『延慶(えんぎょう)本平家物語』6巻、『長門(ながと)本平家物語』20巻、『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』48巻などがある。

以上のように本書には多くの伝本があり、テキストによってその内容や構成がかなり違うが、もっとも世に流布した一方流の語り本では、1131年(天承1)に清盛の父忠盛(ただもり)が鳥羽院の御願寺(ごがんじ)得長寿院(とくちょうじゅいん)を造進した功績により昇殿を許されたときのエピソードを描いた「殿上闇討(てんじょうのやみうち)」に始まり、1199年(建久10)に清盛の曽孫(そうそん)六代(ろくだい)が逗子(ずし)の田越(たごえ)河畔で処刑されて平家の子孫が絶滅するという終章の「六代被斬(ろくだいきられ)」まで、5世代(忠盛―清盛―重盛(しげもり)―維盛(これもり)―六代)約70年間に及ぶ平家一門の興亡がその対象とされている。

このうちもっとも集中的に語られているのは、1167年(仁安2)に清盛が50歳で太政(だいじょう)大臣に昇進し、栄華の絶頂を極めてから、1185年(寿永4)に平家一門が壇ノ浦で滅亡するまでの18年間で、その運命の変転の目覚ましさを描き出すことが、この物語の大きな眼目となっている。[梶原正昭]
2023年12月04日引用

以下割愛




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