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「働くママのnoteページ」では何を書いたらいいのか編

第一章

福岡藩・武家の女性たち ─ 日々の生活と文化 ─
平成29年2月14日(火)~平成29年4月16日(日)

「博多明治風俗図」より「酒屋の樽取り」
武家の女性と子供
(童戯図画)
  江戸時代の福岡藩の武家(ぶけ)は約6000家ほどあったといわれ、ほとんどは城下町福岡に居住していましたが、その人口の半分は武家社会に生きるさまざまな女性たちでした。
 本展示は、ここ城下町福岡で営まれた彼女たちの様々な活動や生活の姿を、開館以来、本館が収蔵してきた武家女性に関する資料を中心として展示し、当時の福岡藩の武家の歴史や文化を広く紹介するものです。

1、戦国の終りと武家女性たち
 江戸時代の初めは、世相や大名家・武家の地位も流動的で、天草・島原(あまくさ・しまばら)一揆での原(はら)城の攻防戦(島原の陣)で戦死した家臣も多く、遺された妻や母が家を守る様に励まされた手紙も残っています。また筑前では、黒田長政(くろだながまさ)の入部以前の戦国の騒乱でも、多くの在地武士が没落し武家以外の道を歩みます。その一つ桜井(さくらい)神社神官(しんかん)・浦(うら)家には17世紀初頭の動乱期を生きた老女性像が残されています。

2、泰平のなかの武家女性たち
 17世紀後半には社会全体の秩序も整い、武家は、当主の武士だけが大名などの主君に仕え、その家を子孫に引き継いでゆくことが最重視され、女性の役割は夫や跡取りを盛り立て、夫の両親に尽くすことに固まっていきました。福岡藩でも当主や家督(かとく)を継いだ男子を家の中心とする法令や達しが出され、藩の制度でも家中心に婚姻(こんいん)、出生、死去などの届け出が行われました。また武家の家系図の多くには、女子の名前の記載はありません。これら武家社会の女性の生き方は、元禄(げんろく)時代ごろの貝原益軒(かいばらえきけん)の学説を下敷きにした『女大学』などによって一般にも広まってゆきます。そこでは女性は他家に嫁ぐ存在として説かれました。
 福岡藩でも武家は城下に集められて藩から屋敷が与えられ、武家の女性たちは一生をほぼその中で過ごします。当主夫人(妻女(さいじょ))は親しみを込めて「奥さん」などと呼ばれたといわれますが、高禄(こうろく)の大身(たいしん)武家夫人たちは、家に仕える武士たちとその家族、男女奉公人(ほうこうにん)が多数いる屋敷の奥向(おくむ)きや内方を厳しく統制することも役割とする存在だったのです。

3、遺された女性像と調度・什器
 福岡藩で最大の家臣、筆頭(ひっとう)家老の三奈木黒田(みなきくろだ)家には2人の奥方(おくかた)女性の肖像が残され、一人は11代当主一美(かずよし)夫人(妙法院(みょうほういん))とされ、もう一人の喫煙(きつえん)中の女性は、10代一葦(いつい)以前の当主夫人像と言われています。両人とも同家の家紋入りの打掛(うちかけ)を着ているため、豪華な帯を、前結(まえむすび)(掛結)にした姿です。ともに机には和本(わほん)などが置かれ、生前に和歌や文学を嗜んだことを示しています。
 調度(ちょうど)としては彼女たちが使ったと思われる鏡台や化粧道具のほかに、文箱(ふばこ)や手文庫(てぶんこ)類が、今も残されています。建部(たけべ)家でも家のお祝いや行事などで使用される食器には金泥(きんでい)で家紋が付けられ、代々大切に保管されました。お祝いの引出物(ひきでもの)を包むための、鮮やかな文様の袱紗(ふくさ)や風呂敷も残され、上流武家の華やかな交際の様子がうかがえます。

4、日々のくらし、遊びと学び
武家子供用裃(かみしも)
 福岡藩の一般の武家の日々の生活のなかでの女性の姿を見てみましょう。武家の妻女(さいじょ)の実際の役割で一番重視されたのは、主人をはじめとする家族、さらには家に仕える奉公人までに至る、衣装・衣服の用意・調達(ちょうたつ)と管理で、特に主人については、勤めや季節のたびに衣服を変えたり整える必要があり、それは、布を織ったり購入したりして用意し縫い上げることから始まり、洗濯、保管まで多岐にわたります。飯田(いいだ)家にはそれらを物語る多くの衣服の雛型(ひながた)が残されています。また大身武家の屋敷内には、機織(はたお)りや縫物(ぬいもの)から、洗濯などの水仕事まで、衣料関係で奉公する女性たちが置かれることも多く、夫人(奥方)は、それらに奉公する女性たちの仕事を指図するのも大きな役目でした。
 日々の食事は一汁一菜(いちじゅういっさい)など藩の倹約令のため案外質素(しっそ)で、夫人の指図で女性の奉公人たちが作っていました。一方、正月や盆(ぼん)の儀式での料理は、鎌田(かまた)家に伝来した「年中行事」の記録では、家族や来客、家臣たちに出すご馳走の内容が記され、配膳(はいぜん)方法、味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)、漬物(つけもの)の作り方から、1年の予算見積りまであります。しかも種まきの記事があるのは、武家屋敷内に野菜園(やさいえん)があり、上中級武家は男性の奉公人、下級武家は主人や家族も畠作りを行ったためです。
 福岡藩では武家の娘たちは、幼い時は年長の家族、おもに母親に読み書きを教えられましたが、成長した娘たちは「しゃんしゃん」とよばれ、男子と違い、藩による女子の初等教育機関(藩校(はんこう))はなく、多くは機織りや裁縫(さいほう)などをしこまれました。師匠について裁縫を学んだ娘たちがもらった免状も残されています。
 武家にも、女子に両親が初歩の漢学を教える家もあり、とくに藩の儒学者の亀井昭陽(かめいしょうよう)の娘・亀井友(とも)(後の少琹(しょうきん))は漢詩の才能を発揮したことで有名です。このほか、絵画や書道、琴、三味線など音楽を学ぶ娘たちもいました。
 当時の武家の娘たちが、雪だるま、凧揚げで遊ぶさま、三味線(しゃみせん)を練習する様子、母親と子供がご馳走をいただく様子などは、福岡藩士の妻だった野村(のむら)もと(後の望東尼(ぼうとうに))が戯画に残しています。

5、家族・親族の記録と記憶
 武家の女性は10代後半には早くも他家に嫁いだり、婿(むこ)養子を取る場合もありました。そして出産、子育て、家内の年中行事やお祝いごと、数多くの先祖たちの法事(ほうじ)・供養(くよう)などで生涯を過ごし、当主が跡継ぎに家督を譲ると引退します。時の古文書で、そのようなライフサイクルの中で、武家女性を中心に婚家(こんか)の一族や実家(じっか)一族との親密な交流や数限りない付き合いをしていた様子が窺えます。老年になっては、現当主の母として家族と一族に長寿(ちょうじゅ)を祝われる女性もありました。藩の御抱甲冑師(かっちゅうし)・田中家に嫁いだ平野國臣(ひらのくにおみ)の妹・槌子は明治になっての老年期の肖像が残されています。
 家族の間での特別な思いを残した記録もあり、亀井少琹(友)が12歳のとき、昭陽が烽火番(のろしばん)勤めのため辺鄙(へんぴ)な山地に出発するのを、母と見送る姿が父の日記には残されています。野村もとは、家督を譲った主人の貞貫とともに向ヶ丘に隠棲(いんせい)し、その日々の生活を、のちに「向陵(こうりょう)集」という和歌集に残しました。藩の国学者・青柳種信(あおやぎたねのぶ)は、死去した土女(とめ)夫人のため、彼女を忍ぶ和歌を万葉仮名(まんようがな)で刻んだ墓碑を作っています。

6、文芸と手芸の世界
 和歌は武家の女性たちの教養の一つで、家族の間で楽しむだけなく、他の武家女性たちとの親しい交流の場にもなりました。野村もとのように、また文芸の道を深めた女性にとり、自分をあまり表に出せなかった当時の女性たちの、大切な自己表現の場でもあったといわれます。福岡藩には華道(かどう)を嗜(たしな)む文化もあり、気楽な姿で華を生ける三奈木黒田家の奥方の肖像が残されます。手芸としては端切れを使った「置(お)きあげ」細工が有名で、野村もと(望東尼)も古典(こてん)に題材をとった懐紙入れや扇を残しています。
(又野 誠)

出品資料 (資料保存のため会期中一部展示替えをします)

第二章・・・

『最後の忠臣蔵』は、池宮彰一郎の同名小説を原作とした2010年公開の日本映画。

可音(大石内蔵助の隠し子) - 桜庭ななみ

瀬尾孫左衛門(大石家の用人、討ち入り前夜に逃亡) - 役所広司
寺坂吉右衛門(四十七士の生き残り) - 佐藤浩市
大石内蔵助 - 片岡仁左衛門(特別出演)

「桜庭ななみ」インタビュー

桜庭ななみ、号泣!「わたしのこと忘れないでくださいね」-映画『最後の忠臣蔵』初日舞台あいさつ 2010年12月18日 13時40分

18日、丸の内ピカデリーにて、映画『最後の忠臣蔵』の初日舞台あいさつが行われ、役所広司、佐藤浩市、桜庭ななみ、そして杉田成道監督が登壇。それぞれゆかりのある人物からの手紙に感無量の表情を浮かべた。

映画『最後の忠臣蔵』場面写真

 役所広司、佐藤浩市という日本映画界きっての演技派俳優の競演、しかも監督はテレビドラマ「北の国から」の演出で、映像に強いこだわりをみせていたことで有名な杉田成道。そんな硬派なメンバーで作り上げた時代劇だけあって、いつも舞台あいさつでリップサービスを展開する佐藤も「初日が迎えられてホッとしています」と一言一言かみしめるように発言。

 そんな中、役所、佐藤、桜庭にゆかりの人物からサプライズの手紙が贈られる。役所には美術監督の西岡善信氏から「素敵な芝居をありがとう、本当にお疲れ様でした」とメッセージが伝えられえると「感激です。ぼくは若造のころから西岡さんの会社にはお世話になっていたので、一緒に仕事ができて感激です」と破顔。一方、佐藤は27年前、映画『魚影の群れ』で一緒だった脚本家・田中陽造氏から「立派な役者に成長した。寺坂吉右衛門を演じきってくれて、つたない脚本を助けてくれた」という感謝の手紙に「27年ぶりに仕事をして、いろいろな思い出があったけど、そう言ってもらえるとありがたい」としみじみ語る。

 二人のあと、桜庭には贈り主が明かされずに手紙が朗読される。「随分と年の離れた人々に囲まれて本当に頑張りましたね」と続く文面に杉田からの手紙であると察すると、桜庭の目には涙があふれる。そして「いつか君もまばゆいばかりの宝石を持った大きな女優になるでしょう。また出会えることを夢見て、別れましょう」という言葉をもらうと号泣。「監督にはクランクイン一か月前からリハをやらせてもらい、ワンシーンワンシーン一生懸命頑張りました。わたしの誕生日の日に、夜中までリハされたときは“このやろう!”って思ったこともありましたが、初日を迎えられて、この場所にいられて……監督には感謝です」とようやく笑顔を見せたが、またすぐに「役所さん、佐藤さん、杉田さん、公開が終わっても、わたしのこと忘れないでくださいね!」と号泣。名残惜しそうに3人を見つめていた。

 最後に役所から「今日でこの映画は、わたしたちの元を離れて一人歩きしますが、面白かったら大きな声でつぶやいてください!」と会場のファンに呼びかけ。最後まで温かい雰囲気の舞台あいさつになった。

 本作は、池宮彰一郎の同名小説をテレビドラマ「北の国から」シリーズの演出家・杉田成道が映画化。赤穂浪士の吉良邸討ち入りのさい、事実を後世に伝えるためという理由で自害することを許されなかった寺坂吉右衛門(佐藤浩市)と、討ち入り前日に逃亡した瀬尾孫左衛門(役所広司)の、その後の人生や彼らの行動に隠された謎をドラマチックに描いた重厚な時代劇。



そして現代キャリアウーマン

第一章、第二章とも江戸時代の藩政に生きたアラサー女性の「才色兼備」を文で語ったものでした。

それをやれ、なんてことは一言も申しておりません。「こんなのあったらいいな~」程度ですから、呪術的老婆心の念仏です。

それにしても、あの白無垢嫁入り姿の桜庭ななみ、には泣けましたね~。演技を越えて地でやってましたね。また、それを助演した役所も出しゃばらず武士の本懐というべき、「主に仕える」文律をきっちり守り通して秀逸でした。

それがどうして「働くママのnoteページ」かといったら、昨日も書いたように世のママたちは、キャリアも含めて外で仕事をしている。当然、社会の百項目以上の軋轢にもみくちゃにされ、それでも家計を助けるために職場に足しげく通う。

だからどこかで、ウップンをはらさないといけない。それがこのnoteではないかとおもったのです。

だったら他のSNSもあるジャン、の声もきこえそうだが、どれも帯には短くて、たすき、だと数センチだけ余る。「身の丈」というのがあって、今のリアルを言葉で綴る、それがnoteの長所なんだろうとおもったわけ。もう一つ特徴を上げれば、丁度いい距離感を保っている。突っ込みすぎなくて、かといってcoolにならない。人の接触がより洗練されると、こんなスタイルになる、そんなことです。

いま社会の拠り所はスマホ、タブレット類の移動式モバイルが主流で、あらゆるインフラがそこに凝縮されている。そこに「私やあなた」の顔がのぞいて、言葉を発信している。上から下からじゃなくて水平パラレル感覚で交信している。その「余白スペース」が程よい寸法で、それが社会にマッチングしている。

noteはそんなことでしょうか。だから「働くママのnoteページ」なんです。

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