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(奥の細道)松尾芭蕉

おくのほそ道(奥の細道)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った紀行文である。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。

「西行」500回忌の記念すべき年に、東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねることが、最大の目的の旅であった。これは芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ移っており、転居と芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。

松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は武士ではなく農民だった。兄弟は、兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた。明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。

そのためか、異説も多いが寛文2年(1662年)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようである。
2歳年上の良忠とともに京都にいた「北村季吟」に師事して俳諧の道に入り、寛文2年の年末に詠んだ句~

春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)

が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという。
寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した。

寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。
この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている。

しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって菩提を弔い、仕官を退いた。

4つの原本
推敲の跡多い原本には中尾本(おくの細道)と曾良本(おくのほそ道)があり、個々の芭蕉による真筆箇所もしくは訂正箇所(あるいはその真贋をも唱える学者もいる)については現在でも論が分かれている。
                      ウイキペディア部分引用

この、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」、は不朽の名として、今でも語り継がれている。

その数文字だけで、芭蕉の足跡と、時代と歴史と風景が描写されているというのは、この江戸文化の最高傑作として金字塔だと思う。

昨今、外国人による「句会」が催されているが、芭蕉までは難しくて届いていないようだった。

いやいや外人でなくても日本人にとっても難しい。俗説で云われているのは、「詳細がよくわからない」という説明をよく耳にする。この検索ウイキペディア資料を読む範囲ないでは、そんなことはなく、生まれから生い立ちまで詳細に書かれている。
ただ、その目的、なんのために全国行脚して「句」書いて記録に残したのか、という問いについては、どこにも書いてない。

「山がそこにあるから上る」と同じ理解をするなら、それで解決済みだが、では「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」、という哲学のような文言は、ギリシア哲学でもそこには到達してないように思う。

もう一つ、目的は今でいう「情報収集」で、行く先々の人と風景を句で描写して、一種の暗号化しており、「芭蕉隠れキリシタンの暗号 『奥の細道』は予言アナグラムになっていた」、という仮説は妙に信憑性があった。

数年前の映画で「ダビンチコード」を観たが、前宣伝チラシの方がよかった、という比較で判断しておこう。

平泉・・・

『おくのほそ道』は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という冒頭より始まる。最も短い詩の形で、わずか17音に詠み手の思いやその時の情景が込められています。
俳句はもともと鎌倉時代に生まれた連歌から派生したものです。
連歌とは人々が順番に「5・7・5」(発句)と、「7・7」(付け句)をつなげていく集団文芸である。

貴族の遊びなのでテーマは季節の情緒や恋など風流なものでしたが、庶民は面白さや滑稽味が高い俳諧連歌(はいかいれんが)を好みました。
江戸時代、松尾芭蕉は発句の部分を独立させて文学にまで昇華し、明治時代に正岡子規によって「俳句」と名付けられました。芭蕉、亡くなったのは数えで51歳だった。

奥の細道「平泉」編
以前から噂に聞いて驚いていた(中尊寺の経堂と光堂の)二堂が開帳されていた。
経堂は三代の将軍の木像を残し、光堂には三代の棺を納め、三尊の像を安置している。
七宝も散逸し、珠玉を散りばめた扉も風のために破損し、金箔を貼った柱も霜や雪に朽ちて、もう少しで崩壊し、何もない草むらとなるはずであったのだが、(堂の)四方を新しく囲んで、屋根瓦で覆って風雨を防ぎ、しばらくの間は遠い昔をしのぶ記念物となっている。



奥の細道 「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人なり」


『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という冒頭より始まる。

作品中に多数の俳句が詠み込まれている。「奥の細道」とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」の表記法をとっている。

おくのほそ道(奥の細道)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った紀行文である。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。西行500回忌の記念すべき年に、東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねることが、最大の目的の旅であった。

「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。

ほとんどの旅程で曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵さいとあんを出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、船に乗って千住に渡り、日光街道の草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ行く。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長になる14日間滞在したる。

ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入る。須賀川、飯坂、仙台と渡り歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されている。平泉は、おくのほそ道の折り返し地点にあたり、藤原三代の栄華をしのび、「夏草や兵どもが夢のあと」の句を詠んだ。

ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って尾花沢に至る。この町の紅花を扱う豪商で、芭蕉とは旧知の俳人でもある鈴木清風を訪ねることもこの旅の目的の一つで、尾花沢に11日間滞在した。尾花沢の人々の強い勧めにより、予定にはなかった山寺(立石寺)に立寄り、「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉の聲こえ」の句を残す。

日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟きさかたに到達する。当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評した。
ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んだ。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を経て、美濃路(美濃国の脇街道)の大垣で「蛤の ふたみにわかれて 行秋ぞ」の句を詠み、結ばれている。

4つの原本
推敲の跡多い原本には中尾本(おくの細道)と曾良本(おくのほそ道)があり、個々の芭蕉による真筆箇所もしくは訂正箇所(あるいはその真贋をも唱える学者もいる)については現在でも論が分かれている。

中尾本は大阪の古書店「中尾松泉堂書店」2代目店主・中尾堅一郎が阪神大震災で半壊した自宅から1996年に発掘した芭蕉自筆本とされるもので、元禄時代に弟子の野坡(やば)が所持したとされることから野坡本とも呼ばれる。曾良本は、中尾本に見られる芭蕉の推敲が入ったものを門人が筆写したとされるもので、曽良が所持していたとされ、1972年より天理大学が所有する。

曽良本以降に芭蕉の弟子で書家の柏木素龍そりゅうが清書した柿衞本(柿衞文庫所有)・西村本(福井の篤農家・西村孫兵衛家所有(1944年に再発見[7]))がある。この柿衞本・西村本は共に素龍本(素龍清書本)とも呼ばれる(柿衞本が1960年に発見される以前は、西村本のみがそう呼ばれていた)。

出版経緯
西村本の題簽(外題)「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされる。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年(元禄15年)に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。
「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく。この元禄初版本は現在1冊しか確認されていないが、増し刷りされ広まったため版本は多く残る(本文に変化は見られない)。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は、西村本を原本とした刊本の本文を指す。

1938年(昭和13年)に曾良本そらほんが発見された。1960年(昭和35年)に柿衞本かきもりほんの存在が発表され、1996年(平成8年)に芭蕉の真筆である野坡本やばほんの発見とされた中尾本なかおほんの存在が発表されている。これによりこの本の原点を探る研究・出版がより増すこととなった。
ウイキペディア


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