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謡曲「仏原」(ほとけのはら)

2023年08月06日

平家物語における仏御前

平家物語における仏御前 「妓王」

『平家物語』一方本における仏御前のあらましは以下の通りである。平家の棟梁である平清盛は、妓王(祇王)という白拍子を寵愛していた。妓王が清盛に仕えて三年後、16歳の仏御前が清盛の前で舞いたいと申し出てきた。清盛は不快に思い、「祇王があらん所へは、神ともいへ、ほとけともいへかなうまじきぞ」と言い、仏御前を追い返そうとした。しかし妓王がとりなしたため次のような今様を歌い、舞を一指し舞った。

画像 新橋ステーション ウイキペディア

新橋ステーション


君をはじめてみる折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ

清盛はたちまち仏御前に夢中になり、妓王は清盛邸を追い出されることとなった。妓王は涙に暮れ、「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき」という歌を障子に書き付けて屋敷を出た。その後妓王は仏御前を慰めるためとして、清盛の屋敷に呼び出されて舞を舞わされた。屈辱に耐えかねた妓王は母の刀自と妹の妓女とともに出家し、往生を願って念仏三昧の日を送る。


平壌攻撃電気使用之図。1894-95年

ある夜、妓王のもとに尼姿となった17歳の仏御前が訪れる。妓王の残した歌により、この世の栄華は儚いと悟り、清盛の寵愛を振り捨てて出家の道を選んだのだという。妓王は旧怨を捨てて仏御前を迎え入れた。四人はその後往生の素懐を遂げ、長講堂の過去帳に書き入れられた。

仏御前の伝承加賀国には仏御前の生涯にまつわるさまざまな伝承が存在している。『平家物語』のうち語り本系には仏御前が加賀国出身であるという記述があるなど、加賀国と仏御前の関連は古くから伝えられていた。世阿弥作とされる謡曲「仏原」は、加賀国に帰った仏御前の霊が、旅僧によって供養されるという話であり、世阿弥が加賀国の伝承を伝え聞いた可能性はある。

加賀国の原村(現石川県小松市原町)はかつて仏原(仏が原、仏の原)と呼ばれ、乾漆像の仏御前像が伝承されている。宝永年間に仏原の住民によって書かれた『仏御前事蹟記』では、仏御前が清盛から授けられた阿弥陀如来の木像を持って仏原に帰郷し、善知識として慕われ、極楽往生を遂げたとされる。

仏御前像とともに伝来する「仏御前影像略縁起」では、以下のような仏御前の略歴が書かれている。永暦元年1月15日(1160年2月23日)、原村に生まれる。父の白河兵太夫は、原村の五重塔に京より派遣された塔守である。なお、この五重塔は、花山法皇が那谷寺に参詣した折、原村が、百済より渡来した白狐が化けた僧侶が阿弥陀経を唱えたことから弥陀ヶ原と呼ばれ、原村になったというエピソードと、原村の景観に感動し建立したものである。

現在は五重塔址のみが残っている。幼少期から仏教を信心したことから「仏御前」と呼ばれる。承安4年(1174年)に京都に上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となる。その後、京都で名を挙げ、清盛の屋敷に詰め寄る。安元3年 / 治承元年(1177年)に清盛の元を離れ出家し、自らを報音尼と称して嵯峨野にある往生院(祇王寺)に入寺する。

往生院には仏御前の登場により清盛から離れた妓王と妹の妓女、姉妹の母がおり、共に仏門に励んだ。その時点で彼女は清盛の子を身ごもっており、尼寺での出産を憚り故郷の加賀国へ向かう。
その途中、白山麓木滑(きなめり)の里において清盛の子を産むが、死産。治承2年(1178年)には帰郷し、治承4年8月18日(1180年9月9日)に死去した。
『加能越三州地理志稿』や一部の口承では、何者かによって殺害されたとされる。小松市に在住していた作家の森山啓は、男たちが恋い慕ったために女衆の嫉妬を買って殺されたという伝説があるという記述を残しているが、どのような経路から入手したかは不明である。ウイキペディア

版画家 小林 清親(こばやし きよちか、1847年9月10日
(弘化4年8月1日)- 1915年(大正4年)11月28日[2] )は、明治時代の浮世絵師。明治10年(1877年)頃に、江戸から移り変わる東京の様子を版画で表現した。

能 仏原


仏原
 
能 仏原 (ほとけのはら). hotokenohara. 〒912-0153 福井県大野市
あらすじ. 都方の僧が白山禅定を思い立ち加賀の国.佛原までやってくると日が暮れた。草堂を見つけ一夜を明かそうとすると一人の女があらわれる。

能サポサイト~
 都から来た僧(ワキ)とその供(ワキツレ)は、加賀(現・石川県)と飛騨(現・岐阜県)に跨またがる高山の白山に修行へやって来ました。その麓ふもとにある加賀国・仏ほとけ原のはらに着いた一行は、ここの草堂で一夜を明かすことにします。
 すると、突然里の女(前シテ)が現れて僧を呼び止めます。仏原に住むという女は、僧に仏御前ほとけごぜんを弔とむらってほしいと頼みます。仏御前は都で評判の舞手でしたが、後に仏原の地に戻って、この草堂で最期さいごを迎えていました。
 昔、平清盛たいらのきよもりは祇王ぎおうという舞の名手を寵愛していました。しかし清盛の心が仏御前に移り、祇王は御殿から追い出されてしまいました。嘆き悲しんだ祇王は、世の無常を悟り仏の道を志こころざします。 
 京の西方の嵯峨で祇王が隠れ住んでいたある日、思いがけず、尼姿になった仏御前が訪ねてきました。祇王は仏御前が仏門に入ったことに驚きますが、祇王を追って尼となった仏御前を前に「あなたこそまことの仏である」と言って、感涙します。
 この昔話を聞いていた僧は女の正体を尋ねます。すると、女は「私の消える跡を見ればわかる」と仄ほのめかして、草堂の中へ消えてしまいます。その後里の者(アイ)からも話を聞いた僧は、先の女こそ仏御前の霊であると確信します。
 夜に僧が読経どきょうしていると、その夢枕に仏御前の霊(後シテ)が現れます。そして、人の世の儚はかなさを語り、悟りの境地を得た仏御前は、まさに仏の舞を舞ってみせるのでした。

概説
 『仏原』は『平家物語』巻一「祇王」を題材としています。『平家物語』といえば、武士たちの人間模様や平家の栄華と没落を描いた合戦の物語というイメージがありますが、能には、武士だけではなく女性に焦点を当てた作品がいくつかあります。『仏原』はそのような作品の一つです。

 『仏原』では、かつて寵愛を受けていた祇王に代わって、寵愛を受けることになった仏御前に焦点が当てられています。能では、故郷である仏原に戻って最期を過ごしたとされる仏御前ですが、『平家物語』によれば、嵯峨で庵室を開いた祇王のもとを訪れた仏御前は、そのまま祇王と妹・祇女と、その母と和解。ともに念仏をとなえながら幸せに暮らしたとあります。本作では、祇王は登場しませんが、祇王の無念さや無常の世への悟りが仏御前の口から語られます。
 仏御前も、また清盛に翻弄ほんろうされ仏の道に入ります。ここで妄執の苦しみや恨うらみ言ごとが語られることはありません。語られるのは、ただこの世は盛者じょうしゃ必衰ひっすいで夢幻ゆめまぼろしのようなものであるということです。

 それを体現するものとして最後に仏御前が舞う「序じょノ舞まい」は、本曲の見どころです。最後に、仏御前は「一歩挙げざる前をこそ、仏の舞とは言うべけれ」と言って消えていきます。それは「舞い始める前の全くの無の状態こそが、まことの仏の境地である」と解釈できます。悟りを得た仏御前の清らかな舞をお楽しみください。

制作 株式会社檜書店
監修 中嶋謙昌
解説 黒沼歩未


■法音(読み)ほうおん
平安末期・鎌倉初期の伊豆走湯権現(伊豆山権現とも。静岡県熱海市・伊豆山神社)の尼。いわゆる後家尼ではなく,「一生不犯」と称せられた修行尼であった。走湯権現を信仰していた北条政子の御経師を勤めていたが,その縁から治承4(1180)年,挙兵決行を前にした源頼朝から,走湯権現など19カ所での日々の勤行の代行を命ぜられた。山内の住坊は不明だが,花水に住んでいたとの伝承がある。のち伝説化し,「初音尼」と呼ばれるのはこの尼のことと思われる。<参考文献>『吾妻鏡』『静岡県史』3巻,太田君男『熱海物語』
(牛山佳幸)コトバンク

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