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謀反のとが 広常暗殺

2022年07月04日

上総之介広常(玉前神社碑文)

上総之介広常 誅殺(ちゅうさつ)

広常の願文(玉前神社)

寿永元年(1182年)になると頼朝との対立が激しくなったとされているが、対立が激しかったのは寿永元年以前であり、寿永元年になるとむしろ両者の関係は改善されたとする指摘がある。
画像Japaaan 鎌倉殿の13人 小四郎、武衛、ブエイ… 上総介広常ロス続出中の第15回「足固めの儀式」振り返り | エンターテイメント 歴史・文化 - Japaaan

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寿永2年(1183年)12月、謀反の企てがあるとの噂から頼朝に疑われた広常は、頼朝の命を受けた侍所所司(さむらいどころしょし)の梶原景時に鎌倉の御所内で暗殺された。景時と双六に興じていた最中、景時は突然盤をとびこえて広常の首を搔い切ったとされる(『愚管抄』)。

嫡男・上総能常も同じく討たれ、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配された。寿永3年(1184年)正月、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免したとされる。尤も、願文発見の逸話も広常の粗暴な振舞いの逸話と同様鎌倉時代後期編纂の『吾妻鏡』にしか見られず、信憑性は不明である。広常の死後、千葉氏が房総平氏の当主を継承した。


頼朝に宣旨が下って東国行政権が国家的に承認されるに及び、元来頼朝にとっての最大の武力基盤であった広常がかえってその権力確立の妨害者となっていたことが謀殺に繋がったといえる。
慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べたことを記している。
広常の館跡上総広常の館跡の正確な位置は今もって不明であるが、1990年代に千葉県夷隅郡大原町(現いすみ市)や御宿町一帯で中世城館址の調査が行われ、検討が進められた。
千葉県東金市松之郷の字「新山」と字「城坂」に跨る舌状台地に「新山城」址があり、広常館があったと伝わっている。
布施の殿台「房総志料」は、布施村(現いすみ市下布施・上布施、御宿町上布施)に館があったとの説を唱えている。村内に山を背にした「殿台」と呼ばれる平坦な土地があり、ここが広常の館跡であるという。また同書は、かつて村内の川をせき止めるものがあり、村民がこれを見たところ、巨大なカニが近づいてきたので、恐怖して逃げたとの伝承を広常の霊であると説明している。
「日本伝説叢書 上総の巻」でも、『吾妻鏡』の内容を考えるに、安房の国東條の旅館から広常の館に送られた使者が2日ほどでたどり着ける場所として、布施村以外にないとしている。ただし、村民の中には伝承を上総景清と混同している者もいるほか、村内に実際にはないはずの頼朝の経過地を示す伝承地があるなど、混乱が見られるという。

「千葉大系図」では、一宮柳沢城に広常の館があったとしている。一宮町では、これを町内の高藤山城のことだとしており、城内に一宮藩主・加納久徴が広常の功績をたたえて作った石碑がある。一方、「柳沢」を一宮に近い「大柳」の誤記ととらえ、睦沢町の大柳館のことだと考える向きもある。

鎌倉における広常の屋敷跡は、朝比奈の切り通し沿いにあり、近隣には大刀洗の水や上総介塔などの関連史跡がある。歴史学者で京都女子大学名誉教授の野口実は広常のことを「いささか大風呂敷で露骨な大言壮語を吐くが、根は気の小さい、やさしい性格」と評価している。
平治の乱・家督争い広常は、鎌倉を本拠とする源義朝の郎党であった。保元元年(1156年)の保元の乱では義朝に属し、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝の長男・源義平に従い活躍、義平十七騎の一騎に数えられた。平治の乱の敗戦後、平家の探索をくぐって戦線離脱し、領国に戻る。

義朝が敗れた後は平家に従ったが、父・常澄が亡くなると、嫡男である広常と庶兄の常景や常茂との間で上総氏の家督を巡る内紛が起こり、この兄弟間の抗争は後の頼朝挙兵の頃まで続いている。

治承3年(1179年)11月、平家の有力家人・伊藤忠清が上総介に任ぜられると、広常は国務を巡って忠清と対立し、平清盛に勘当された。
頼朝の挙兵時の広常(および千葉常胤)の参陣・挙兵は、行き詰まった在地状況を打開するための主体的な行動であり、平家との関係を絶ち切り、実力によって両総平氏の族長としての地位を確立した。

源頼朝挙兵 治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は隅田川辺に布陣する頼朝のもとに2万騎を率いて参上した。頼朝は大軍を率いた広常の参向を喜ぶどころか、逆に遅参を咎めたので、その器量に感じて頼朝に和順したとされる。なお『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である 。
だが、野口実は『吾妻鏡』の広常に関する記述を詳細に分析した結果、広常は当初から頼朝側だったと結論付けている。頼朝挙兵以前に頼朝からの使者に対する広常の返答は早速の了承であり、ただ船の都合で8月下旬までの参向は無理としている。

このことから9月19日、隅田川辺での頼朝への参向、これは広常による平家方勢力の掃討を意味しているのであり。頼朝への参向は上総ないし上総国府と考えるのが妥当である。

呉座勇一も広常が初めから頼朝側であったからこそ、頼朝が何事もなく安房から上総を経由して下総に向かえたとし、広常が率いたとされる大軍も上総国内から平家側勢力を一掃したことによって動員が可能になったものとして、野口の見解を肯定している。

同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる(金砂城の戦い)。
『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあると書かれる。ただし、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは不明である。
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【誅殺】(ちゅうさつ スル)罪をとがめて殺すこと。「逆臣を誅殺する」

大河ドラマでは頼朝「落馬説」死亡

大河ドラマで描いた「頼朝の最期」 三谷幸喜さんが明かした秘話

2022年7月4日 6時0分 毎日新聞哀れな姿だった。武家政権の礎を築いた源頼朝。
その死に至るシーンが6月26日放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(第25回)で描かれた。同じ源氏一門の木曽義仲を討ち、有力家臣の上総広常を権謀術数の限りを尽くして殺し、平家滅亡の最大の功労者である実弟の義経も滅ぼした。粛清を重ね権力を手にした男が、死を直前にして罪の意識にもだえ、疑心暗鬼に陥る。3日放送の第26回では、落馬後に昏睡(こんすい)状態になった頼朝が死去した。脚本の三谷幸喜さん(60)がオンラインの取材会を開き、頼朝の最期についての「秘話」を明かした。【稲垣衆史】

「ちむどんどん」させてくれているか 担当記者座談会

この25回では、死期に近づいた頼朝(大泉洋)が不安に駆られ、さまざまな「異常行動」を起こす。

連日、自分が死ぬ夢を見て不安になり、異母弟に悩みを打ち明ける。義弟の北条義時(小栗旬)には「北条は信じてよいのか」「近ごろはもう誰も信じられん」と迫る。重臣や長男が訪ねてきても「追い返せ!」と怒鳴る。

さらに、長年支えてもらった義父の時政(坂東弥十郎)には、「時政はわしを殺して鎌倉をわがものにしようと考えているのではないか」と疑念を向ける有り様だ。また、餅を喉に詰まらせて窒息しそうになるなど、もう大変。さらに時折、鈴に似た音が耳鳴りのように響いて頼朝を苦しめる。

そういえば、これまであまりに冷酷でわがままな「大泉頼朝」に、SNSでは視聴者から厳しい声が相次いだ。誰かが粛清されるたびに、ツイッターでは「#全部大泉のせい」というハッシュタグができて、何度もトレンド入りした。

大泉さんに対して三谷さんは「僕が望んでいる頼朝像をきちんと、それ以上に演じてくれるという信頼がある。孤独な部分も含め、これほど人間味ある頼朝を演じられる俳優は他にいない」と絶賛する。三谷・大泉コンビといえば、2016年の大河ドラマ「真田丸」が思い浮かぶ。大泉さんが真田幸村の兄、信幸(信之)を好演。それもあって強い信頼関係があるのだろう。ツイッターでの「悪評」を知り、大泉さんに「日本中に嫌われても僕は君のことが好きだよ」とメールしたところ、「全部お前のせい」とちゃめっ気たっぷりの返信があったという。

落馬シーンに込めた思い

また、こんな印象的なシーンもあった。頼朝は、木曽義仲を支えた巴御前(秋元才加)と面会し、こうべを垂れて涙を流す。そしてこう謝罪するのだ。「義仲殿にはすまぬことをした。(略)義仲殿もわしも、平家を討ってこの世を正したいという思いは一緒であった。すまん。そなたの顔を見ると無性に謝りたくなった」

三谷さんは「(大泉さんは)自然と涙が出たと言っていました。僕はあんなに泣くとは思わなかったんだけど、それはこれまでずっと演じてきた積み重ねの上での涙なんじゃないかな」とおもんぱかった。

頼朝の死については諸説あり、なかには暗殺説も存在する。だが、歴史書「吾妻鏡」に記載のある落馬を選んだ。その理由を「これだけ長い時間、頼朝のつらさや孤独を十分感じてきたので、静かにちゃんと死なせてあげたかった。殺されれば、殺す側のドラマになってしまう」と語った。

その落馬シーン。森の中を馬上で進んでいた頼朝が、急に右手にけいれんを覚える。鳥の鳴き声や風の音が大きくなり、そのまま落下。絶命を予感させるが、その場にはいない義時や梶原景時(中村獅童)、三浦義村(山本耕史)らが異変に気付いたかのように、その表情がクローズアップされる。

この描き方については「40年越しの構想だった」と打ち明けた。

というのは、1979年の大河ドラマ「草燃える」も鎌倉初期を描いており、当時高校生だった三谷さんはこれを見て感銘を受けたという。「その頃は脚本家になると思っていなかったし、大河ドラマで同時代を書くとは想像もしていなかった」。だが、当時の落馬シーンを見た際、「自分なら倒れた瞬間に周囲の人たちが何を思っていたのかを描く」と思いついたという。今作を見て「演出の吉田(照幸)さんが僕の思いをより強調し、一人一人に時間をかけて描いてくださった。『僕が見たかったシーンは、これなんだ』と感じた」と感慨深げに語った。

頼朝が死去し、物語は後半に入る。昨年末に行われたインタビューで、三谷さんは「物語が始まるのは頼朝が死んでから」と語っており、御家人同士の政治闘争はさらに激しさを増しそうだ。

義時の最後の敵(ラスボス)は「承久の乱」を起こす後鳥羽上皇かと目されてきたが、今回、三谷さんが挙げたのは意外にも有力御家人の三浦義村だった。「いまだにどんなやつかわからない。僕のアイデアですけど、最後に大ばくちを打とうと考えて、ラスボス的に物語に関わってくるかもしれない」と明かす。

ではラストはどうなるのか。「自分の中で決めているのは、主人公の人生が終わる時が最終回。理想は息を引き取った瞬間」だとか。いやが上にも期待が高まる。







画像 読売オンライン

1864年日本のターニングポイント「禁門の変」

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