見出し画像

アレクサンドロス東征

東方制覇

その後もギルガメシュは旅をつづけ、ついに「ウトナピシュティム」をさがしあてる。だが結局永遠の生命は手に入れることは不可能であることに気づき、ウルクにひき返して、死を受け入れたのだった。と話は結ばれているが、支離滅裂といっていいくらいで、それが「神話」である、としても説得力がない。だから、神話なのか?(古代中国不死薬「神仙」伝説とそっくり)

ーあとでメールする「テペ」  11/23

八咫烏、三本足の手掛かりを探しに、伝説「ギルガメシュ」レバノンまで探ってみたが、そのヒントは探せなかった。古代文明ルーツを探れば、そこから枝分かれした、伝承説話など類型として、残っているが、今回の「八咫烏」にはそれがなかった。

もともと「神武東征」して世界(この場合は日本)を制覇するという戦スタイルは「マレドニア」王、アレキサンダー伝承の一説に在り、「東を支配」するというのは、神話的筋書きとして「太陽神」を手中におさめるという王の願望の表れで、古事記の「神武天皇」もそれに倣った、と思われたが、さすがに西と東、歴史的年代差を考慮すると、そう簡単に起承転結には至らなかった。

「アレクサンドロス」大王の東方遠征

アレクサンドロス大王は前334年から前323年まで、ギリシアの東方、アケメネス朝ペルシアの支配する広大な地域への大遠征を行った。

アレクサンドロスの東方遠征の理由は、古来、ペルシア戦争の復讐戦であるとか、大王の領土的野心、インド征服の夢など、さまざまな見解があるが定説はない。

大王自身は、自由なギリシアが、僭主や異国人の王に支配され奴隷の境遇にあるアジアの民を解放する戦いであると戦争目的を部下の将兵に語っている。

背景には、ポリス社会の崩壊に伴い、ポリスというよりどころを無くしたギリシア民衆の不満と不安のはけ口を求める声があったのではないだろうか。また、征服地には各地に植民市アレクサンドリアを建設し、ギリシア人を入植させた。遠征後半はペルシア人など現地勢力との融合をはかる政策をとった。これらは東西融合政策といわれているが、その実態はギリシア人の不満分子の隔離という側面もあった。

東方遠征軍の編成 アレクサンドロスの率いたマケドニア軍の編成は、中核をなす騎兵部隊が8隊1800人からなり、騎兵ヘタイロイ(仲間の意味)と美称され、兜と胸当てを付け、腰に短剣を差し、長さ2.7mの槍を片手に握り、方形や楔形の隊形で戦った。

マケドニア人歩兵はペゼタイロイという重装歩兵部隊(1500人の部隊が6隊、計9000人)と、ヒュパスピスタイという近衛歩兵部隊(1000人ずつの3隊)の二種があった。

前者がフィリッポス2世が創設した、長狭5.5mの長槍(サリッサという)を前の4列が水平に構えるハリネズミ方式をとった。後者は職業軍人、つまり常時兵力であり、遊撃戦、奇襲作戦などで活用された。

これらのマケドニア人主力の他に、ギリシア同盟軍、ギリシア人傭兵、バルカン諸民族の部隊など、総兵力は3万7100人にのぼった。また、別に先遣部隊総勢1万、非戦闘員(従者、土木技術者など)を加えれば総勢6万4000になるという。

本国残留部隊として12000の歩兵と、1500の騎兵がおかれた。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.112>(世界の窓) 部分引用

紀元前356年7月20日~死去 紀元前323年6月10日(満32歳没)
バビロン在位  紀元前336年 - 紀元前323年
別号 コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主
エジプトのファラオ ペルシアのシャーハンシャー アジア王

画像1

画像 ウィキペディア

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?