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ウンブキ古代戦いは、子孫繁栄のための矛盾

混沌するアメリカ、その芝生ばかり見る隣人世界の社会

予告通り、1月1元旦の「ウンブキ」黙秘録~をこれから綴ります。正月休日ですから、長文テキストを覚悟してください。

序、イントロ部として洋楽「ビートルズ」の話題で、間口を広くしておきましよう。それが「ウンブキ」と何が同期するのかと、怪訝またいぶかる向きもあることでしよう。ええ、正直何もありません。
ただ、ウンブキもビートルズも雅楽「リヨウ王」も、私の超個人的視点からしたら、全部がシンクロ同期すると思うから突飛でトリッキーなリテラシーになる、というまことに唯我独尊の独り舞台の開演時間です。

私が日本の古典伝統音楽継承者であることや、雅楽奏者であること、そこからジャンル別に1960年代、アメリカ、セントロイスJAZZファン、リスナーであることなど自慢話は、すでに飽和して話してあります。

勿論「理論考古学」(そんなものは学会に在りません私の創作ジャンルです)についてはライフワークを自認しており、にわか考古学の自称者です。
それをわざわざなぜ書いたかと云うと、今日資料を探すのに、いつものウキウキ先生、グルーグル教授による資料検索しましたが、「ウンブキ」検索アンサーに出された答えが、全部私の記事であったことに驚きと辟易と、自己陶酔の極みに、しばし筆が止まりました。

ということは世界的な、検索プラットホームであっても、初期初動については、それが処女分野であるとすれば、一番乗りしたものが、その大家になり得る、ことの証明をしたようなものです。ですから、そんなことを肝に命じて、真摯にこの論説をまとめることといたします。

ビートルズ、ですが「ナウ・アンド・ゼン」復刻曲が昨年話題となって、世界を震撼させ、そのネームバリューの偉大さを再確認したようなものです。何故ビートルズか、といったら世界団塊世代への応援歌であり、好きも嫌いも、全部好きにしてしまったカリスマは、今世紀最大のメタル(ノ〇〇〇賞)に至り、おそらくあと数年したら「ジョンレノン」の手にあると、思ってしまうほどです。それだけの影響力を発散させた宗教家外で、いたことはなかったでしょう。ですからビートルズを挙げました。

次に雅楽です。これは私のライフワーク必須科目で、今朝のNHKテレビ教育(1/1 朝7.15~)テレビ「陵王」を見て私の正月が始まるのです。

『映像の世紀バタフライエフェクト「ビートルズとロックの革命」』
NHK総合 2023年12月30日(土)午後9:00 ~ 午後10:15 (1時間15分) ※73分拡大版
1970年の解散から半世紀がたった今も、新しいファンを獲得し続けているビートルズ。全世界のレコード売り上げ枚数は前人未到の10億枚。
若者たちの気持ちを代弁する初めての音楽だった。そしてその奔放な言動は旧来の価値観も壊していく。階級、人種、性別の壁、さらには東西冷戦の壁。ビートルズは世界をどう変えたのか。そして、4人に影響を受けたスティング、ボウイ、スプリングスティーンなどスーパースターも続々登場!

1400年の歴史を誇り日本の芸能の礎ともいわれる舞楽。宮内庁式部職楽部 ... 歌舞伎生中継 【Eテレ】. 放送日時:2024年1月2日(火)18:00~20:45 ...
蘭陵王(らんりょうおう)は、雅楽の曲目の一つ。管絃にも舞楽にも奏される。別名蘭陵王入陣曲、短縮して陵王とも呼ばれる。(管絃演奏時には蘭陵王、舞楽演奏時には陵王と表す)
左方(唐楽)に属する壱越調(いちこつちょう)の一人舞で、華麗に装飾された仮面を被る勇壮な走り舞。答舞は納曽利(なそり)。
{林邑の僧}である仏哲が日本にもたらしたものと言われ、元は沙陀調(さだちょう)であったが日本で壱越調に転調した。中国風の感じが残ると言われる美しい曲。
北斉の蘭陵武王・高長恭の逸話にちなんだ曲目で、眉目秀麗な名将であった蘭陵王が優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇姿を歌に歌ったのが曲の由来とされている。
武人の舞らしい勇壮さの中に、絶世の美貌で知られた蘭陵王を偲ばせる優雅さを併せ持つ。
由来
この曲の由来となった伝説によると、高長恭はわずか五百騎で敵の大軍を破り洛陽を包囲するほどの名将であったが、「音容兼美」と言われるほど美しい声と優れた美貌であったため、兵達が見惚れて士気が上がらず、敵に侮られるのを恐れ、必ず獰猛な仮面をかぶって出陣したと言うもの。
男性がこの舞を舞うときは伝説に則して竜頭を模した仮面を用いるが、女性や子供が舞う場合は優しい顔立ちであった高長恭になぞらえてか化粧を施しただけの素顔で舞うこともある。
この伝説に対応する史実としては、北周が兵を発して洛陽を包囲した時、援軍を率い城門の前に到着したものの城内の人間が敵の策謀を疑って門を開けなかったため、高長恭が兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌にその正体を悟った門兵が扉を開き、無事に包囲を破って洛陽の解放に貢献したという記述が『北斉書』などの史書に見える。
装束
龍頭を模した舞楽面を着け、金色の桴(ばち/細い棒のこと)を携える。
緋色の紗地に窠紋の刺繍をした袍を用い、その上に毛縁の裲襠 (りょうとう)と呼ばれる袖の無い貫頭衣を着装し、金帯を締める。女性や少年少女が舞う場合もあり、その場合は、舞楽面を着けずに桜の挿頭花を挿した前天冠を着け、歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧をする場合がある。

{林邑の僧}である仏哲が日本にもたらしたもの、の記述は、ウンブキ縄文を辿る遺伝子ルートの中にあった「りんゆう」のことで、すでに、その時代では、先進的音楽雅楽エッセンスであった現ベトナムを挿しているのです。

そして話題は超リアルな、 個人考古学者の「理論考古学」

そのウンブキ遺跡洞窟は、海底に1万年沈んでいた

■1万1700年~7400年前 水没前の「縄文期」生活痕か
2020年7月23日
日本最大級の水中鍾乳洞 謎のウンブキ土器
「波状条線文土器」と類似
天城町会見【徳之島】天城町当局や教育委員会は23日、日本最大級とされる水中鍾乳洞「陸の中の海『ウンブキ』」(同町浅間)で水中探検家が発見、回収していた謎の〝ウンブキ土器〟の年代測定結果について会見。同測定値に土器の分類・同定調査を重ねた結果、同町西阿木名「下原洞穴遺跡」出土の「波状条線文土器」と特徴が類似。1万1700年~7400年前の縄文時代相当期に製作され、一定期間陸上で生活に使用後(海面上昇で)水中に取り残されたと考えられると発表した。

 「ウンブキ」は海の崖・谷の意味で、別名「浅間湾屋洞穴」。内陸部にぽっかりとあいた開口部は、潮汐で海水面が上下。現在の徳之島空港滑走路を含む地下を抜けて東シナ海につながっているとされる。日本を代表する水中探検家・水中カメラマンの広部俊明氏(55)=沖縄県恩納村在住=が2018年9月、テクニカルダイビングの特殊技術を駆使し、人類未知の同エリアで第1回調査に着手。自身が発見した日本最大級の水中鍾乳洞「広部ガマ」(総延長約680㍍)=同村=を大きく超えて1㌔余の規模に及ぶことを発表。昨年5月の調査時は〝ウンブキ土器〟の回収にも協力していた。

 会見は広部氏も同席して同町役場であった。町教委の具志堅亮学芸員(36)の説明によると、土器(直径約17㌢・高さ約21㌢)は、ウンブキ洞口(入口)の約70㍍奥・水深25~30㍍で広部氏が発見した。同地点に存在した可能性については、①入口から流れ込んだ②発見か所の洞窟天井に地上に通じる空間が存在③ウンブキが水没する前に人によって持ち込まれた―と推測。

 土器に含まれる石英など鉱物が、土器焼成後から蓄積を始める放射線量(蓄積線量)で推定する「熱ルミネッセンス年代測定法」を用いた年代測定の結果、製作年代は「1万1700年前ごろ」と推定。土器の特徴など分類・同定など調査では「下原洞穴遺跡」出土の「波状条文土器」(地層の炭化物年代測定で7400年~7100年前)と、口縁部の波線文様や頸(けい)部の「ハ」の字状の条線文などが類似。

 同学芸員は「ウンブキの土器は、7000年以上前の縄文時代に相当する時期に製作された可能性が非常に高い」と指摘。奄美・沖縄で人間活動痕跡が確認できてない「空白の時代」(7000年~2万2000年前)を考える上でも非常に重要。今後の課題には「海面の急上昇とウンブキ土器の関係を明らかにすることも求められる」とも。

 同水中鍾乳洞の全容解明を継続していく広部氏は、「泥(流入した赤土)に埋まっているが土器片はまだ無数ある。内部の支洞も増えており日本ナンバーワンの水中鍾乳洞だ」。メキシコ・ユカタン半島になぞらえて「日本のセノーテだ」とも絶賛。森田町長は「7400年前のウンブキは陸上にあって私たちの先祖が生活して連綿と続いて今があることに感動。大切に次世代に引き継ぐ責任も感じている」。
 ウンブキ土器は今月29日~8月2日まで同町「ユイの館」で展示される。


縄文一万年前の地球
その時代、海面はいまより海抜100m.も低かった、と調査班は判定した。すなわち海底洞窟と云うのは、みせかけであり、はるか昔の地球は氷河期であり、その中で縄文人は暮していたことになる。
そして温暖化が進み海面上昇したと。
ではいま騒いでいる人工的温暖化現象というのは、その規模に匹敵するのか、という単純な話だ。

信じられない、という疑心暗鬼と、じゃ外の案とか筋とか代案があるかといったら、ナニモ浮かばないというのが実際だ。

これまで、1300年以前の考古学は、その「古事記」記録を基に推察され確かな証拠記録に支えられて、考古学的なシナリオが成立していた。それが現代科学の遺伝子解析という手法で、隅の奥底までデータが積みあげられると、時代に書かれたシナリオの信憑性が増してきた。
そのことによって、予想としての筋が、にわかに真実にかわり、実写の人間像が浮かび上がる。
今後、物語りは古代の新説が解き語られはじめる。たのしみだ。

ウンブキ 縄文人のルーツか? 形質人類学から見た縄文人のルーツ

かつてアイヌはコーカソイドではないかと考えられていたことがあるように、縄文人も形質的にコーカソイドに類似するとの研究 もあるものの、形質人類学の分野では、化石人骨が比較的多く見つかっている北東アジアと日本列島の旧石器時代人との類似を指摘する研究が多い。

これまでに出土した化石人骨と縄文人の関係を見ると、縄文人に最も近いとされているのは沖縄島出土の港川人(およそ1万8000年前)であるが、形質面から見ると縄文人は港川人の次の段階とまでは言えず、両者の間には更に1つか2つのミッシングリンクがあると考えられている。また、港川人の頭骨はワジャク人に近く、柳江人や山頂洞人(中国)にはそれほど似ていない為、少なくとも琉球弧の縄文人の祖先は環太平洋方面から来たのではないかとの見方がある。

一方で、縄文人は旧石器時代のシベリア南部の集団に由来するとする研究もある。

瀬口(2014)によると、先史時代の縄文人は、日本へのさまざまな移動ルートを使用して、多様な旧石器時代の人口から派生した。
この点で、縄文の生物学的アイデンティティは異質であり、縄文として知られている共通の文化に属している可能性のある多様な人々を示している可能性がありえる。—Seguchi 2014

2017年の近藤修による頭骨測定の研究では、縄文人はかなり異質であることがわかった。「南縄文人」と「北縄文人」は大きく異なっていた。九州、四国、本州の「縄文人南部」は、現代の東アジア人(「モンゴロイド」)とほとんど同じだったが、「縄文人北部」は異なる表現型を持っていた。縄文人の大多数は古代東アジア人の子孫だが、北海道の縄文人は異なる遺伝的祖先を持っているようである。北海道縄文人と本州縄文人の間には遺伝子流動の証拠がある。

分子人類学から見た縄文人のルーツ

父系のルーツ

父系のルーツを辿ることができるY染色体ハプログループは、数万年にわたる長期的な追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。

長らく、日本人は『Y染色体ハプログループD1a2aの縄文系』と『ハプログループO1b2の弥生系』を起源とする東京大学名誉教授埴原和郎が唱えた「二重構造モデル」が主流であったが、最新のゲノム解析で『ハプログループO3a2cの古墳系』からなる「三重構造モデル」であることが証明された。この『Y染色体ハプログループD1a2aの縄文系』は日本人(大和民族)及び沖縄人(琉球民族)とアイヌ人や本土日本列島奄美群島及び琉球列島と千島列島の3集団に多く見られるタイプである。

国外では韓国、ミクロネシア、ティモール島などで低頻度にみられる。

このハプログループD1a2aはアイヌ人の75%に見られることから、D系統はかつての縄文人(旧石器時代のシベリア)のものであると考えられている。但し縄文人のハプログループがD1a2aだけだった訳ではなくハプログループC1a1も縄文人由来と考えられている。

ハプログループDの分布

東アジアのY染色体ハプログループ移動図

ハプログループD系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、現代アジアにおいて支配的なO系統やC2系統とは分岐から7万年以上経ており、最も近縁であり同じYAP型であるE系統とも6.5万年前に分岐した系統である。現在D系統は、日本列島以外で高頻度の地域はチベットとアンダマン諸島しかない。

ハプログループDは、現代の東アジア人とシベリア人に近い「東アジアのハイランダーズ」(古代チベット人)に関連していて、縄文時代後期に増加し、C1a1、K、Pなどの以前の縄文時代の系統に大きく取って代わったとされる。

なお、当時の弥生人や現代東アジアにおいて支配的なO系統は、ウラル系のN系統やコーカソイド系において最多的なR系統などと近縁であり、縄文人やアイヌ等のYAP型(D系統、E系統)とは全く異なるグループである。

以上のことから縄文人から自然進化的に弥生人が派生したという説は完全に否定されている。

日本列島にD系統の人々が入ってきたのは数万年前の最終氷期と考えられている。その証拠として、日本人のD系統にのみ見られる多くのSNPの発生があげられる。SNPは突然変異により発生する確率的な事象であるから、発生数によって時間の経過が分かるのである。日本固有のD1a2a系統はその発生から3.5-3.7万年ほどたっているとされ、考古学から求められる日本列島に最初に現生人類集団が到来した時期と一致している。

長らく縄文人の人骨よりY染色体ハプログループは分析されてこなかったが、北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800~3,500年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体ハプログループがD1a2a2a(D-CTS220)であることが判明した。これにより「ハプログループD1a2aは縄文系である」という従来よりの仮説に一つ近づいたが、検証したのは長い縄文時代の中期のたった一人である為、時代、地域共に広範囲での多数の検証が期待される。

とりわけハプログループC1a1は拡散年代と縄文文化開始の時期が一致しており、今後の研究いかんによっては初期の縄文人の主要なDNAとなる可能性がある。C1a1は日本人固有であり、現在の日本ではおよそ5%の頻度で発見されている。

母系のルーツ

父系のルーツを辿れるY染色体ハプログループに対し、ミトコンドリアDNAハプログループは母系のルーツを辿ることができる。ただし、ミトコンドリアDNAは稀に男性のDNAが混じることや、人間より検証個体の多いネズミのDNA測定では、ハプログループの分岐や時期が事実とは全く異なっていたから、あくまでもY染色体DNA等、他の資料と共に考察する必要がある。


ミトコンドリアDNA(母系)の分析によって縄文人のルーツの一角が解明され、日本固有のハプログループM7aや南方系と共通の遺伝子を持つハプログループBやFを持つことが知られている。宝来聡の研究によると、「東南アジアの少数民族から日本列島に位置する琉球弧人やアイヌまでが共通の因子を持つ」とされ、形質人類学においてはこれらの人々が縄文人と最も近いとされることから、縄文人のルーツは東南アジアの旧石器時代人との見方が可能である。

これらを裏付けるように、国立科学博物館人類研究部 の篠田謙一らの研究では、鹿児島県霧島市・上野原遺跡の縄文人(25,000年前)から同様にハプログループM7aが検出され、縄文人は、現在は海底に沈んでいる東南アジア・フィリピン沖のスンダランドが起源で、北上して南九州に到達し、大隅半島西北部の小高い台地にある上野原遺跡と呼ばれる「最古のムラ」から日本列島全域へM7a系統の縄文人が拡散したと想定している。このM7a系統は、縄文時代にすでに北海道へも到達していたことが明らかとなっている。

さらに2010年までに沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から発掘された、旧石器時代の人骨を国立科学博物館が分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち2点はハプログループM7aであることが明らかとなった。

しかしながら、溝口優司は、5万年から6万年前にインドを経由し東南アジアで放散した東アジア人全体の祖先 の中から日本列島に到達したグループは複数存在し、東南アジアから北上する過程で台湾や南西諸島を経由し日本列島に到達した場合もあれば、一度北上し1万5千年前にバイカル湖周辺で寒冷地適応した後に南下し朝鮮半島や中国から日本列島に移住した場合、バイカル湖を経由せずに大陸を海岸沿いに北上し、ブリヤートあたりから南下したルートが存在すると考えると、日本列島の遺伝的勾配をうまく説明できるという説を唱えている。
この説の要点は東アジアグループの成立年代が6万年前であり、バイカル湖で寒冷地適応したグループがアフリカから中央アジアを経由したわけではないので、宝来や篠田の説とも矛盾しない。

また北海道の縄文人はハプログループN9bが最多でM7aは少なく、東北地方の縄文人も似た傾向を示している。このことから縄文人のルーツは一つではなく複数あったと考えられる。

その他の遺伝子

縄文人の起源には複数の説がある。一部の説は東南アジアを、別の説は北東アジアを可能性のある起源であるとしている。一方、他の説は東アジアそのものを起源としている。最新の遺伝学的研究は、縄文人はユーラシア大陸各地の集団によって形成された、としている。2014年の遺伝学的及び形態学的研究を概観した論文でも縄文人が複数の起源を持つ事が示唆されている。

縄文人は、世界各地の集団と比較した場合、アフリカ人、ヨーロッパ人、サフール人(オーストラリア-メラネシア)、アメリカ先住民の集団よりは比較的東アジア人の集団に近い。ヒトゲノム多様性プロジェクト(英語: Human Genome Diversity Project)(HGDP)のデータを用いた全ゲノムに渡るSNP(一塩基多型)の比較においても、三貫地貝塚から出土した縄文人集団は現代東ユーラシア人全てと遠く離れており、その特異性が示された。東ユーラシア人内における三貫寺縄文人集団の特異性は、ヨーロッパ人やアフリカ人と比べても同様であった。
日本列島のアイヌ、本土日本人、琉球諸島の集団、そして北京の中国人(CHB28)を三貫寺の縄文人と比較した統計分析の場合、第一主成分でアイヌと三貫寺縄文人が他の集団と分けられた。三貫寺縄文人に最も近かったのはアイヌで、次いで琉球諸島の集団、そして本土日本人であった。

今日ではほとんどの科学者は縄文人はユーラシア大陸の複数の集団の子孫であると考えている。標本の得られた縄文人の系統群は、東アジア人を含む他の人類集団と遺伝的に距離がある。しかし、東アジアの沿岸部の集団との共通点も一部ある。その集団は本土日本人、ウリチ人、朝鮮人、台湾先住民である。縄文人は漢民族に代表される大陸のアジア人集団と比較的古い時期に分かれ、それは約3万8000年前から約1万8000年前までの間とみなすことができた。
縄文人は遺伝的には漢民族と比較した場合、日本列島のみならず、ロシア沿海州のウリチ族、朝鮮半島、台湾、フィリピンなど東アジアの沿岸部等の方に近いことが判明し、こうした要素を持つ人たちが大陸沿岸部に分散する中で一部が日本列島へ渡ってきた可能性が高そうだが、現状では日本列島の縄文人が大陸沿岸部に広がった可能性も否定できない。

縄文人(IK002)を含む古代および現在の個人の主成分分析(PCA)

2020年に行われた全ゲノムの解析においては、縄文人の起源に関する更なる情報が示された。縄文人は様々なルートで日本に移住した様々な古代の人類集団の子孫である事が分かった。縄文人は主に現在まだ標本の得られていない古代北ユーラシアの集団、そして様々な東アジアに関連した集団から形成されている。この遺伝学的解析の結果が示すのは、旧石器時代に既に日本において異なる集団間の混血が起こり、その後も絶え間なく東アジア沿岸部からの遺伝子の流入があり、その結果多様性のある集団となり、弥生人が到来する前に均質化した、という事である。
チベット高原からの遺伝子の流入も検出され、ハプログループD1a2a (Y染色体)と関連している。

このグループは縄文時代後期になって初めて日本における優勢なハプログループとなった。KとFの系統は、縄文時代初期に存在していたが、CとDに取って代わられたことが示唆されている。伊川津貝塚から出土した縄文人の標本一体、及びチベット高原の古代の標本の分析からは、両者の間には部分的な共通祖先が発見されただけであった。

これは古代チベット高原の集団及びチベット・ビルマ語派の集団に関連するハプログループDが拡散する際に、正の遺伝的ボトルネックが起きたことを示している。遺伝的証拠から、ヒマラヤ山脈付近の東アジアの源流集団が、縄文時代の日本の集団に祖先をもたらしたことが示唆され、古代の東南アジア人への祖先の寄与は少なかった。著者らは、このことは旧石器時代に中国南部または中部を通って日本へ内陸移動したことを示唆していると結論づけた 。

古代シベリアからの遺伝子流入は北海道の北方縄文人にも検出され、後に北海道から本州北部(東北)にも遺伝子流入した。2021年、北海道の古代の人口集団は、縄文人と旧石器時代の北ユーラシアに土着した「終末期後期旧石器人」(TUP人)から形成されたことが確認された。
東アジアから紀元前15,000年頃に渡来した縄文人と、それ以前に渡来した「終末期後期旧石器時代北ユーラシア人」とが融合して、北海道の縄文人が形成された。2020年のガクハリらも同様に、古代北ユーラシア人(マリタ遺跡のMA-1サンプルによってサンプル化された)、または類似のグループから北日本への遺伝子流入の可能性を指摘しており、これはシベリアの細石刃文化の導入と明らかに関連づけることができる、とした。Cookeらによる2021年の全ゲノム分析。
現在分析されているすべての縄文人サンプルと他の集団との系統発生関係を再評価し、縄文人の系統は紀元前15、000年から2万年の間に現代の東アジア人から分裂し、外部の集団から大部分が孤立したと結論付けた。著者らはその後、縄文人が後期旧石器時代の大陸の人々と接触したかどうかを分析した。
分析によると、縄文人は、古代北ユーラシア人としても知られる、ヨーロッパに深く関係する北シベリアの旧石器時代後期旧石器時代のヤナRHSサンプルに関連する集団から混合物を受け取り、最終氷期最盛期以前に北ユーラシアに広まった。現代の日本人の間で推定される縄文人の祖先は、平均9.31%と推定されている。

2020年にケンブリッジ大学出版局が発行したある研究では、縄文人は均質ではない集団であり、弥生人が移民するよりも古い紀元前6,000年前頃に北東アジア人の移民があり、その集団が大平山本遺跡などの初期の土器文化に代表される縄文時代草創期の文化をもたらした、と示唆している。その研究者たちは更に、弥生人の到来の前にオーストロネシア人が日本の南端(特に先島諸島)にいた可能性について言及している。

2022年にメリンダA.ヤンが行ったアジアの人々に関する論文のレビューでは、縄文人は「東アジアおよび東南アジア」(ESEA)系統の他の人々と密接に関係していることがわかった。このESEAの血統は、現代の東アジアおよび東南アジアの人々、シベリアの先住民、アメリカ大陸の先住民の祖先の一部であり、そして古代のホアビニアン(英語版)の血統と田園洞人のサンプルを含んでいる。ただし、オーストラリア人やヨーロッパ人とは異なる。
縄文人は、古代の中国南部(Longlin)のサンプルと同様に、ホアビニアンの血統と田園洞人のサンプルと比べて、9,000-4,000年前の東アジアの北部と南部の沿岸部からのサンプルに近いが、その中では外れた位置にある。

HLA IおよびHLA II遺伝子とHLA-A、-B、および-DRB1遺伝子頻度の分析からは、アイヌとアメリカ大陸の先住民、特にトリンギットなどの太平洋岸北西部の集団との類似性がみられ、アイヌ民族とアメリカ先住民のグループの主な祖先は、南シベリアの旧石器時代の集団にまで遡ることができると示唆された。

考古学から見た縄文人のルーツ
日本列島に居住した後期旧石器時代人を縄文人の直接の祖先と見た場合、問題となるのは、これら日本列島の後期旧石器時代人はどこから来たのかという点である。石器の形式に注目してみると、後期旧石器時代の日本列島にはナイフ型石器と細石刃という、同じ用途に用いられる2種類の石器が存在していた。

ナイフ型石器は大陸では出土例が無いもので、日本列島で独自に発達したものと考えられ、鹿児島県上野原遺跡の調査などから発見されている。

一方で、細石刃はバイカル湖周辺に起源を持つもので、日本列島に伝播したのはおよそ2万年前、宗谷海峡経由で北海道にもたらされた。細石刃が東北や北陸に伝わるのはおよそ1万5000年前である。つまり、この時期に北東アジア方面から細石刃の技術を持った少数の人々(ハプログループC2(C-M217)らが北方からも日本列島に移動してきたことになるという。また華北・朝鮮半島経由で九州に、さらには西南日本に伝播してきた細石器もあり、最古の出土物から1.6-1.5万年前に伝播したものと考えられているが、もっと遡るという説もある。

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「日本列島の先住民族」としての縄文人

明治期には縄文人は「石器時代人」と呼ばれ、日本列島の先住民族と考えられていた。この時期には日本人の祖先は「天孫族」と呼ばれており、記紀神話にあるように列島史のある段階で別の場所から日本列島にやって来た人々であるとされていた。
その為、「石器時代人」はいわゆる日本民族の祖先ではなく、アイヌの祖先あるいはアイヌ神話に登場するコロポックルではないかと考えられており、この論点を巡って「アイヌ・コロポックル論争」と呼ばれる論争も発生した。

こうした見方は鳥居龍蔵による「固有日本人論」にも受け継がれたが、一方で昭和に入ると浜田耕作が縄文人を日本民族の祖先と見る説を発表し、学界に一石を投じた。

「高級狩猟民」としての縄文人

1930年代には唯物史観が登場し、縄文人を経済面から新たに捉え直そうとする動きが始まる。代表的な論者として山内清男が挙げられる。山内は縄文人を、男性が狩猟・漁労に従事し、女性が採集活動に従事するという分業体制を持った、発達した狩猟採集民族であったと考えた。

「弥生文化の母体」としての縄文人

戦後(第二次世界大戦後、太平洋戦争後)つまりまだDNA分析技術が無く、学者もまだ出土「史料」だけに基づいて起きた出来事を空想するにとどまっていた時代には、それまで「弥生人に単純に置換された存在」と見られていた[要出典]縄文人を、「弥生文化を主体的に受容して弥生人へと変化していった人々[要出典]」として捉え直す人[誰?]が現れた。

「人類史上類例の無い狩猟採集民」としての縄文人

1970年代以降には更に研究が進展し、それまで動物性食料に依存していたと思われていた縄文人が、実際にはクリなどの堅果類や芋などの根茎類を多く食べていたことが明らかとなった。また同時期のヨーロッパの新石器時代人が農耕や牧畜を行っていたとされた のに対し、1970年代には縄文人によるヒエ栽培や、縄文後期の水稲を含む稲作の存在が研究者の間でも周知とはなっていなかった。

この結果、縄文人は当時の日本列島の生態系に適合した食料獲得システムを構築し、1万年間の長きに渡って豊かな狩猟採集食文化を維持した、人類史上にも他に類例の無い人々であったとの見方が登場した。

「海洋民族」としての縄文人

伊豆諸島産の黒曜石が縄文時代やそれ以前に東日本各地で使用されていたことに注目した小田静夫や橋口尚武らの研究により、関東地方の縄文人が縄文早期中葉には内海での漁労に加えて伊豆諸島など外海へも進出していたことが明らかとなった。

また「縄文土器がバヌアツで表層採取された」というニュース(これについては事実の解釈を巡って議論が続いている)にも注目し、縄文人が南太平洋に進出してポリネシア人の祖先になったという説を唱える者や、エクアドルで縄文土器に似た土器(バルディヴィア土器)が出土したことを理由に、縄文人が南米大陸に到達していたという説を唱える者さえも出現した。

「平和」な縄文人 (とは過去の通説で矢じり武器死傷跡が多くの遺跡から見つかっている 筆者)

山口大学と岡山大学の研究グループの人骨調査によると、暴力による死亡率は約1.8%となった。他国や他時代の暴力死亡率と比べると、5分の1以下の水準である。対照的に弥生時代からは殺害されたとみられる人骨が急増する。

エミシ・エビス・エゾ・アイヌと縄文人

前述のように明治から第二次世界大戦が終わる頃までは、縄文人は日本民族によって日本列島から駆逐されていった先住民と見られていた。こうした見方は必然的に、古代から近世にかけて日本の支配する領域の北隣に居住していた異民族、そしてアイヌを縄文人の直接の末裔と見る説を生み出した。
このような縄文人、蝦夷、アイヌを等号で結ぶ見方は、その後の研究の発展によってほぼ否定され、今日の学界では受け入れられていないが、完全な末裔ではないものの、国立科学博物館が行ったゲノム解析解析によりアイヌ人は縄文人の遺伝子を特に色濃く残していることも判明している。

近年では、12世紀におけるアイヌ文化の成立をアイヌ民族の成立と見る立場を政治的に不当なものとして糾弾し、古代の北東北からアイヌモシリにかけて広がっていた擦文文化や続縄文文化の担い手たちをも「アイヌ」と呼ぶべきであると主張する論者も、少数ながら存在する。
例えば平山は山田秀三らが東北地方にアイヌ語地名が多数存在していることを明らかにした研究に言及しつつ、古代の蝦夷(エミシ)と近世のアイヌが同系統の言語を母語としていたことは事実であり、であるならば古代蝦夷と近世アイヌは同じ民族とするべきであると主張している。
小野は12世紀にアイヌモシリでアイヌ文化を生み出した集団は、11世紀以前にアイヌモシリに居住していた擦文文化人やオホーツク文化人(ニヴフ系)の直接の子孫であるから、これらは同じ民族と見るべきであると主張している。

ただ、こうした主張に対しては、エスニック・グループを本質主義的に捉えており、それを構成する人々の形質的特徴や社会的・文化的特徴が長期に渡って不変であるとの前提に立っていて、現在の人類学・考古学・歴史学・社会学の研究レベルでは通用し難いとの批判がある。

2004年の頭蓋特性の再評価は、アイヌの人々が縄文人よりもオホーツクの人々に似ていることを示唆している。また、アイヌは縄文人ではなくシベリア人の子孫でアイヌ語はオホーツクの人々と関連付けることができるという説もある。しかし一般的にはアイヌは縄文人のDNAを最も多く受け継いでおり(70%程度)シベリア人の子孫というのは無理がある。

縄文人と海

縄文人は基本的には狩猟採集民であったが、その中には海に深く関わっていた人々も存在したことが知られている。

勾玉の分布
遅くともBC5,000年頃(縄文時代中期)には勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の長者ヶ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されており、蛍光X線分析によると青森県の三内丸山遺跡や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが判明しており、縄文人が海を渡って広い範囲でお互いに交易をしていたことが考えられている。後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。

貝類の採集
縄文人が貝類を食糧資源・装飾品の原料として採取するようになったのは縄文早期前半で、代表的な遺跡として横須賀市の夏島貝塚が挙げられる。縄文早期の半ばには瀬戸内海沿岸や東北地方でも貝塚が形成されるようになる。採取対象は当初は河口等の汽水域に生息するヤマトシジミであったが、やがて内湾干潟の牡蠣礁で得られるカキや、やはり内湾の軟泥干潟から容易に得られるハイガイなどにその中心は移る。

また、腕輪やペンダントの原材料として採取された貝類もある。特に目立つのが大型の定住性カサガイの一種で岩礁潮間帯低部から採取されるオオツタノハガイの利用である。
オオツタノハガイは主に屋久島やトカラ列島に生息するが、縄文期には、特に縄文後期・晩期を中心に、関東全域から北は北海道の有珠10遺跡でも出土している。これについて、原材料となったオオツタノハガイは南九州から運ばれたという説と、三宅島以南の伊豆諸島にも生息域があったのではないかとの説が対立している。

オオツタノハガイの他には暖流域の浅海から得られるタカラガイの一種ハチジョウタカラガイも広く利用された。

伊豆諸島への進出
前述のように、先史時代の日本列島住民が今日の伊豆諸島に進出したのは旧石器時代である。しかし、縄文期の遺跡に限ると最も早いものでも縄文早期の半ばのものとなる。この時期の遺跡としては伊豆大島下高洞遺跡、神津島せんき遺跡、三宅島の釜ノ尻遺跡などがある。

縄文前期の末には黒潮の本流を越えた。縄文人が八丈島に進出し、倉輪遺跡からは関東、南東北、中部、関西地域の土器が発見されている。

伊豆諸島への進出

前述のように、先史時代の日本列島住民が今日の伊豆諸島に進出したのは旧石器時代である。しかし、縄文期の遺跡に限ると最も早いものでも縄文早期の半ばのものとなる。この時期の遺跡としては伊豆大島下高洞遺跡、神津島せんき遺跡、三宅島の釜ノ尻遺跡などがある。

縄文前期の末には黒潮の本流を越えた。縄文人が八丈島に進出し、倉輪遺跡からは関東、南東北、中部、関西地域の土器が発見されている。

九州島と南島・朝鮮半島間の交流

縄文前期には九州島 を中心として轟式土器と呼ばれる土器が広く使用されるようになった。轟式土器は九州島周辺の他、種子島や屋久島、朝鮮半島南部にも分布しており、これらの島々・半島間を航行した縄文人集団が存在したことをうかがわせる。
日本列島周辺や南西諸島周辺、朝鮮半島周辺の島々は国ができる以前からこれらの海域を行き来する海洋民族によって既知だったと推測される。

また轟式に続いて登場した曽畑式土器も、奄美大島の高又遺跡、沖縄島の読谷村渡具知東原遺跡、朝鮮半島の慶尚南道にある釜山市の東三洞貝塚などから発見されている。
縄文人が黒潮本流を越えた例としては、この曽畑式土器を持った集団による縄文前期の九州島・奄美大島間の航海が最も古く、関東における三宅島・八丈島間の航海よりおよそ800年早いものであるとされている。東三洞貝塚では大量の縄文土器と北松浦半島産黒曜石が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。なお、朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない。

長浜浩明は、大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長の伊藤郁太郎の見解として、「1969年から1971年にかけて東三洞貝塚の下層から尖底・円底無文土器が発見された。

これらの中には北松浦半島の泉福寺洞穴や福井洞穴などから発見された隆起線文土器と類似する土器、同じく北松浦半島の黒曜石と大形石斧(佐世保市相浦の門前遣跡 製)も含まれていた。その他、慶尚南道真岩里や咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見されている」と紹介し、縄文人は7000年前から無人の朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していた、と述べている。

また、朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており、現代韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられたとしている。また長浜は、朝鮮半島の櫛文土器文化の土器は九州の曽畑式土器(縄文前期)そのものであると述べている。

縄文人の用いた舟艇

これまでに出土した事例に見る限り、縄文人が航海に用いたのは一本の丸太を刳り抜いた丸木舟であったと考えられている。帆柱の跡やオール受けの跡は検出されていないため、(カイトセイリングのように帆柱を用いない形式での帆走を行った可能性は否定出来ないまでも)基本的にはパドリングによる推進であった可能性が高い。

船体の断面は関東地方出土の丸木舟を見る限りでは半月型あるいは三日月型であり、弥生時代以降の凹型断面の丸木舟とは異なる特徴を示している。船体長は最大で残存長7メートルから8メートルのものまであるが(例えば千葉県香取郡多古町島(七升)出土の縄文前期のものは残存長7.45メートル、残存幅0.7メートル)、小さいものでは4メートル以下のものも多数出土している。

材はアカマツやクロマツ、カラマツ、カヤ、ケヤキ、ムクノキ、クスノキなどの例がある。

なお、1982年には松江市内の小中学校の教師の有志5名により、「からむしII世」と名付けられた丸木舟による黒曜石の運搬実験が行われ、隠岐の宮尾遺跡から本州の松江市美保関町の七類港まで15キロの黒曜石を1日で運搬することに成功している。言語

■資料 ウイキペディアから部分抜粋した。※中に「ウンブキ」という名詞がほとんどないと云うことは、いまだ、ウンブキ遺跡関連、分析研究が進捗していないと思われた。更新記事があれば随時掲載したい。





 








そしてまたアメリカにいたっては「ガーファ」本拠地シフトが加速し、治安の悪さとゴミ汚染のシリコンバレー、高い家賃と地方税、年々厳しくなる行政の規制に嫌悪がはじまりスタートアップがぞくぞくと誕生する米シアトルとその周辺エリアが次世代だと息巻くアメリカに勝算はあるのか。それはひとえに次期アメリカ大統領選で誰を選ぶか、という瀬戸際でありその二肢選択を一つ間違えば、世界がまるでかわってしまうという未曽有が待っている。

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