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耳無し芳一 (映画)

2023年08月24日

耳無し芳一


映画『怪談』から 「耳無し芳一」(1964) 東宝2019-04-12 小林正樹監督  カラー 七百年ほど昔、下関海峡の壇ノ浦で源平最後の合戦があり平家一門は、この地で滅亡した。
その霊を慰めるために赤間ケ原に阿弥陀寺という寺が建てられたがこの寺に「芳一」という、まだ若い盲目の琵琶の名人がいた。

image 芳一 (中村嘉葎雄)

ある夜、彼の前に甲冑姿の男が現れ「高貴なお方に琵琶を聴かせるためお前を迎えに来た」と、ある場所に連れて行かれる。

image 甲冑姿の男 (丹波哲郎)

その立派な屋敷の位の高い方々の前で芳一は『平家物語』の壇ノ浦の合戦の部分を琵琶を奏で、物語る。

実写でのドラマ仕立ての源平の戦いの場面も実に長く、丁寧に撮られていて驚きますが、下の源平海戦絵巻はこの映画の為に中村正義画伯が製作された5点の絵で1点の絵の大きさが五百号もあるそうです。


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芳一の巧みな琵琶と語りを聴くうちに平家一門の人々は嗚咽し、むせび泣き、そして、声を上げ哀しんだ。
このシーンは、思わずもらい泣きします。

その後も毎晩、男に連れ出され明け方、死びとのようになって帰って来る芳一を心配した寺の住職(志村喬)はある夜、二人の寺男(田中邦衛・花沢徳衛)に後をつけさせた。すると寺男が見たのは人魂が飛び交う荒れ果てた平家の墓場で一心に琵琶を奏でる芳一の姿だった。住職は平家の怨霊に取り憑かれた芳一の体全部に般若心経を書きつけどんなに呼ばれようと絶対に声を出してはいけないと言いつけた。

image 住職 (志村喬)

その夜、いつものように芳一を迎えに来た武士は芳一、芳一と名を呼ぶが 返事がなくただ空中に2つの耳が浮かんでいるのを見てその耳を引きちぎって持って帰って行った。
両耳を押さえ悶絶する芳一。住職は芳一の耳にだけお経を書くのを忘れたのだ。
その後、芳一は「耳無し芳一」と呼ばれ、その名声は遠方まで聞こえたという。
『怪談』の四つの作品の中では登場人物も際立って多く重厚な作品に仕上がっておりその妖しい美しさに観ていてとりとめのない幻想を抱きました。

源平合戦の場では北村和夫(平知盛) 林与一(源義経)ほか、中谷一郎、近藤洋介、中村敦夫さんなど大勢の俳優さんが出演されています。

しかし結果、構想10年撮影期間9か月、スタツフ総勢800人を要した、この映画はカンヌ映画祭の審査員特別賞の他国内の賞も数々取りましたが、興行成績は振るわずほとんどの俳優さん、スタッフがノーギャラになってしまい交通費・ホテル代まで自腹を切ったとか。
制作業務を受け持った文芸プロ「にんじんくらぶ」は倒産。小林監督は青山の邸宅を売却二間の部屋を間借りし亡くなるまでそちらで暮らしたそうです。


殆ど記憶から消えていた怪談琵琶盲目奏者 芳一「壇ノ浦」

「耳なし芳一」というのがある。平家物語を琵琶で弾き語るというくらいだから、同様にその話もむかしむかし、の説話なのだろうか。
記憶は定かではないが、これを題材とした映画を観た、記憶がある。水面に浮かぶ舞台上で、その「芳一」が琵琶を弾いていた。そして書き忘れた「耳」を怨霊が奪うという画像は鬼気せまるものがあった。

その映画、昔の作としては、よく出来ていたといまでも思う。波立つ水面の青が印象的で、そこに浮かぶ琵琶演奏の舞台のコントラストが見事だった。なぜか、そのシーンだけは今でもはっきり覚えている。

近ごろ頻繁に出没しているという平家一門の邪悪な怨霊であった。住職は、怨霊たちが邪魔をされたことで今や芳一の琵琶を聴くことだけでは満足せず、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと案じた。

下関海峡の壇ノ浦で、源平最後の合戦(紅白)、という日本を二分した歴史話は、それをみた当時(小学生?)、平家と源氏の「猿蟹合戦」程度のお伽話しかと、思っていた。また、世にテレビが普及した年代に至っても、その平家物語、とか壇ノ浦合戦とか、そこにいた平清盛が、朝廷政権に対して、どのように関与していたか、さらに永遠のライバル頼朝と、何が原因で死闘を繰り返していたのか、まったく知らなかった。

勿論、その当時は戯曲としての筋書きがメインで、半分が脚色されていた話で、云ってみれば「能」シナリオであったに違いない。
また白拍子という布石の仏、静御前の存在も秘話人物として表には、出ていなかった。そんなことを類推すると「白拍子」という名詞が、なにを語っているのか、いまだによくわからない。それが〇×御前、であるから白拍子、である、という、言い回しに盲目的に従う、そうとしか考えられない。

多分「吾妻鏡」にそう書いてあったのだろう(精査なし)。だから千年後の日本のネットSNS(存在不明)の、隅の一辺に「たけのこ族」とか「パパ活」とかあったら、日本人(これも不明)が理解するだろうか。

まして2023ー3023年した日本に、誰が住んでいるか、というのも判らない。まったくの憶測だが、日本人と称する国民はいるだろう。ただ問題は物理的医学的な遺伝子配列が、いまの日本人定義、とは大幅に異なっているのは、「弥生時代」と比較すれば、明らかに違うことは判るだろう。

大昔の遺跡遺伝子ルートを見れば、ユーラシア経由と、環太平洋ルートなど、様々な遺伝子が伝わっていることがわかる。それが「未来永劫」であった試しはなく、常に更新している。だから3023年の日本は、半数が国外生活で、残った精鋭三千万人(遺伝子レベルでは大変革している)程度が国力を維持していると予想された。
ただし、今の世界インフラが維持していることが前提であるなら、地球の温暖化寒冷化が一気に変化すれば、これまでの話は、なかったことになる。

小泉八雲の『怪談』(1904年〈明治37年〉刊行)に所収の「耳無芳一の話」で広く知られるようになった。

森銑三らによれば、小泉八雲が典拠としたのは、江戸時代後期の天明2年(1782年)に刊行された一夕散人(いっせきさんじん)の怪談奇談集読本『臥遊奇談(がゆう きだん)』(全5巻5冊)の第2巻「琵琶秘曲泣幽霊(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」であった。

『臥遊奇談』でも琵琶師の名は「芳一」であり、背景舞台は長門国豊浦郡の赤間関、阿弥陀寺とある。これは、幕藩体制下の長門府中藩領赤間関と阿弥陀寺(安徳天皇御影堂を中核とする)にあたり、明治時代初期の神仏分離と廃仏毀釈運動によって阿弥陀寺が廃寺となったのち、現在では、山口県下関市赤間町界隈および阿弥陀寺町の赤間神宮となっている。

昔話として徳島県より採集された例(1985年)では「耳切り団一」で、柳田國男が『一つ目小僧その他』(1934年)等で言及している。

芳一のモデルは、南北朝時代の平曲(琵琶の伴奏による『平家物語』の語り物)の流派「一方流(いちかたりゅう)を確立した明石覚一検校(1299年頃 - 1371年)であるという説がある。
赤間関にある阿弥陀寺に芳一という琵琶法師が住んでいた。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手であった。

ある夜、住職の留守の時に、突然どこからともなく一人の武者が現われる。芳一はその武者に請われて「高貴なお方」の御殿に琵琶を弾きに行く。盲目の芳一にはよく分からなかったが、そこには多くの貴人(きじん)が集っているようであった。

壇ノ浦合戦のくだりをと所望され、芳一が演奏を始めると、皆、熱心に聴き入り、芳一の芸の巧みさを誉めそやす。しかし、語りが佳境になるにつれて、皆、声を上げてすすり泣き、激しく感動している様子で、芳一は自分の演奏への反響の大きさに内心驚く。芳一は七日七晩の演奏を頼まれ、夜ごと出かけるようになるが、女中頭から「このことは他言しないように」と釘を刺された。
住職は、目の見えない芳一が無断で毎夜一人で出かけ、明け方に帰ってくることに気付いて不審に思い、寺男たちに後を着けさせた。
すると、大雨の中、芳一は一人、誰もいない平家一門の墓地の中におり、平家が推戴していた安徳天皇の墓前で、恐ろしいほど無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていた。

驚愕した寺男たちは強引に芳一を連れ帰る。事実を聞かされ、住職に問い詰められた芳一は、とうとう事情を打ち明けた。
芳一が貴人と思っていたのは、近ごろ頻繁に出没しているという平家一門の邪悪な怨霊であった。住職は、怨霊たちが邪魔をされたことで今や芳一の琵琶を聴くことだけでは満足せず、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと案じた。

住職は自分がそばにいれば芳一を護ってやれるが、あいにく今夜は法事で芳一のそばに付いていてやることができない。寺男や小僧では怨霊に太刀打ちできないし、芳一を法事の席に連れていけば、怨霊をもその席に連れていってしまうかもしれず、檀家に迷惑をかけかねない。

そこで住職は、怨霊の「お経が書かれている体の部分は透明に映って視認できない」という性質を知っていたので、怨霊が芳一を認識できないよう、寺の小僧とともに芳一の全身に般若心経を写経した。ただ、この時、耳(耳介)に写経し忘れたことに気が付かなかった。また、芳一に怨霊が何をしても絶対に無視して音を立てず動かないよう堅く言い含めた。
その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武者が芳一を迎えにきた。しかし、経文の書かれた芳一の体は怨霊である武者には見えない。

呼ばれても芳一が返事をしないでいると、怨霊は当惑し、「返事がない。琵琶があるが、芳一はおらん。これはいかん。どこにいるのか見てやらねば…。」と、独り言を漏らす。怨霊は芳一の姿を探し回った挙句、写経し忘れた耳のみを暗闇の中に見つけ出した。
「よかろう。返事をする口がないのだ。両耳のほか、琵琶師の体は何も残っておらん。ならば、できる限り上様の仰せられたとおりにした証として、この耳を持ち帰るほかあるまい。」と怨霊はつぶやき、怪力でもって芳一の頭から耳をもぎ取った。

それでも芳一は身動き一つせず、声を出さなかった。怨霊はそのまま去っていった。 明け方になって帰ってきた住職は、両の耳をちぎられ、血だらけになって意識を無くした芳一の様子に驚き、昨夜の一部始終を聞いた後、芳一の全身に般若心経を書き写いた際に納所が経文を耳にだけ書き漏らしてしまったことに気付き、そのことを見落としてしまった自らの非を芳一に詫びた。
その後、芳一の前に平家の怨霊は二度と現れず、また、良い医師の手によって芳一の耳の傷もほどなくして癒えた。この不思議な出来事は世間に広まり、彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。やがて、芳一は、琵琶の腕前も評判になり、その後は何不自由なく暮らしたという。

人間芳一(ほういち)主人公。琵琶の弾奏に特別な才能を見せる若き琵琶法師である。「少年」とされるが、正確には10代後半であり、芳一堂に祀られている木像も、大人になるにはまだ早い子供といった感じで造形されている。
ただし、後世のリメイク作品などでは、青年あるいは大人のイメージで描写されるのが通例となっており、子役がキャスティングされた例は見当たらない。盲(めし)いて生まれた芳一は、貧しい境遇に育ったが、幼くして師匠を凌ぐほどの才気に溢れた芸がその身を大いに助けた。

赤間関の阿弥陀寺に身を寄せたのも、芸能の才が手繰り寄せた良運であった。阿弥陀寺での芳一は、芸能好きの住職に衣食住の足るを約束され、必ずやるべきことと言えば、住職の求めに応じて琵琶を奏してみせることのみであった。しかし、檀家に不幸があったので住職たちが出掛けてしまい、芳一がひとり切り寺に残って過ごすことになった蒸し暑い夏の夜のこと、怖ろしき怨霊どもの耳にも届いてしまった芳一の才が、今度は命に係わる禍事(まがごと)を引き寄せてしまう。盲いたか弱き少年の前に、居丈高な大男の気配が現れた。

耳なし芳一事件が解決した後、しばらく経って呼ばれるようになった、芳一の通名。
ただ、文献によって名称と表記はまちまちである。大きく「耳切れ」と「耳無し」に分かれており、後者は小泉八雲が「耳無芳一の話」で用いて以降の文献からしか見ていないと、近藤清兄は言っている。
耳切れ芳一 / 耳きれ芳一(みみきれ ほういち)、耳切れ芳一ばかりでなく、「耳切れ○○」は類例が多い。
仮名草子『曽呂利物語』(寛文3年〈1663年〉刊行)巻第4の9の「耳切れうん市が事(みみきれうんいちがこと)」では、その名は「うん市」、事件後の「耳切れうん市」であり、怪談集『宿直草(とのいぐさ)』(延宝5年〈1677年〉刊行)巻2第11の「小宰相の局、ゆうれいの事(こざいしょうのつぼね ゆうれいのこと)」では、その名は「団都(だんいち)」、事件後の「耳きれ団都」である。
「#類話」も参照のこと。耳無芳一 / 耳無し芳一 / 耳なし芳一(みみなし ほういち)

住職(じゅうしょく)、その呼び方は「住職和尚」「住職」「和尚」の3通りがある。
芳一が世話になっている阿弥陀寺の、住職を務める和尚である。「和尚」は仏教僧の敬称でしかないので、本項の解説では立場を明示できる「住職」を主に用いた。詩歌と音楽を好み、評判の芳一をしばしば寺に招いては弾き語りをさせていたが、今では芳一を寺に住まわせ、衣食住の足るを約束する代わりに求めに応じて琵琶の腕前を披露することを頼み、日々の楽しみにしていた。


耳なし芳一の物語 2013-10-29 19:12:05 | 自著記事コピー


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