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いま「サルトル」、を聴け

このところ、いわゆる「少数派」マイノリティーカテゴリーら、その人物と足跡など書いてきた。

幻の童謡詩人「金子みすゞ」

金澤 翔子 プロフィール  2021年10月16日記事
金澤 翔子(1985年6月12日 - )は、東京都目黒区出身の書家
母も同じく書家の金澤泰子。号は小蘭(号の場合、苗字は金沢)。「ダウン症の書家」として知られる。

そんな話しからすると温暖化阻止デモのスウェーデン環境活動家である人物、グレータ・エルンマン・トゥーンベリ、主に地球温暖化の弊害を訴えている  (年齢 18歳)など筆頭にあるが、彼女、今では少数派から脱して、多数派頭首フランスの「ジャンヌダルク」に肉迫するまでになった。

その活動の始めは、スウェーデン議会前に手書きプラカードを独りで掲げていた(真偽は未定)頃の佇む姿は印象的だ。

後にそのキャンペーンは地球規模まで発展し、あの「トランプ大統領」と互角にやり合ったことも、彼女のすごさ、を確定的なものにした。

では、その反体制的思想の源泉は、どこから生まれたか、いろいろ思案したが、やはり欧州の地理的要因とその歴史が背景にあると思う。

ジャンルは異なるがあの「ビートルズ」がアメリカからデビューできたか、また、「ヨーコ・オノ」と結ばれていなかったら「イマジン」は存在したか、ということに近似していると思う。

すべては結果論であり、その反対論理、なるべくしてなった必然、という分析は説得力がある。

その歴史的人物の中に「サルトル」がいる。ウィキペディア~

1964年、ジャン=ポール・サルトルは、ノーベル文学賞に選出されたが、「作家は自分を生きた制度にすることを拒絶しなければならない」として受賞を拒否・辞退して式を欠席した。このときは、候補に挙がっていたことを知ってあらかじめ辞退の書簡をノーベル委員会に送付していたが、書簡の到着が遅れたためノーベル賞受賞決定後に辞退することとなった。なお、サルトルは公的な賞をすべて辞退しており、この数年前にはレジオンドヌール勲章も辞退している。1966年9月18日には、ボーヴォワールとともに来日し、知識人のありかたに関し講演するなどした(1966年10月16日)。

サルトルの思想は実存主義によるもので、今まさに生きている自分自身の存在である実存を中心とするものである。特にサルトルの実存主義は無神論的実存主義と呼ばれ、自身の講演「実存主義はヒューマニズムであるか」(のちに出版される『実存主義とは何か』のもととなった講演)において、「実存は本質に先立つ」と主張し、『存在と無』では「人間は自由という刑に処せられている」と論じた。もし、すべてが無であり、その無から一切の万物を創造した神が存在する(有神論の立場)ならば、神は神自身が創造するものが何であるかを、あらかじめわきまえている筈である。ならば、あらゆるものは現実に存在する前に、神によって先だって本質を決定されているということになる。この場合は、創造主である神が存在することが前提になっているので「本質が存在に先だつ」ことになる。※ウィキペディア

その「サルトル」哲学体系全部をここで語ることはではないが、抽出引用した部分だけでも、その真意が計り知れることだろう。その「サルトル」もまた多数派に媚びを売ることなく、孤高を貫きとおした人物、また唯一ノーベル賞拒否したことで、みずからそれを証明して、その栄誉はいまだ誰にも破られいてない。

と、一人唯我独尊にひたり、どうだかっこいいだろうという虚勢なんかしなくていいよ、というネットの囁き声が訊けるかもしれない。

まあそれでもいいだろうし、ちまたネット論者の無益喧騒論争よりかも、数銭価値があると自負しているる。

どうしてそんな論理になるかと云うと、「抗体カクテル療法」1回31万円という実話ニュースを読んで、「ああそういうこと」と溜飲を上下して感慨と嘆息があったので一言いってみたまでだった。

直感、「地獄の沙汰も金次第」と咄嗟におもう。いい悪いと反論の前に、すでに実行されている国レベル策定の一環で、日本国民は、その恩恵に浴している。ずいぶん前に、中東世界有事の時、連合側として派兵しなくで金だけで清算し世界の嘲笑を買った、という不始末とまったく逆のパラドックスであると、推測したのは私だけだろう。

今、それを世界比較すると、まったくウソのようなデータが出そろって、当初云われていた、何か日本はインチキしている、という世界風評が、そのまま今度は、終息下降線をみて、再び「日本はやっぱりインチキしている」という声も出そうだ。そんな懸念は、自国民の何人かは抱いていたと思う。

ああやはり゛政治はプロパガンダして国民を欺いた゛とね。

その結果が、あと数ヵ月で判るだろうし、専門家の意見でもそんなことを予想している意見も見聞される。

そんなことを総合的に勘案してみると、この事態、というのは歴史の中の数ミリ幅だが、しっかり記録ストックされる項目になると考えた。

古くは戦争時の「命に優劣をつけ選別する(優生思想)」という思想に沿って作為的に、命を選別した時代があった。その方法論は異なるが、いま、救える命と救えない命が、明らかに選別されていないだろうか。


「スピノザ」 オランダの哲学者。11月24日裕福なユダヤ人商人の子として、アムステルダムに生まれる。
 ユダヤ教団の学校でヘブライ語と聖典を学び、カバラの神秘思想にも接したが、卒業後は医師ファン・デン・エンデンFranciscus van den Enden(1602―1674)に就いてラテン語、自然学、幾何学およびデカルト新哲学を学び、しだいに異端的な西欧思想に傾斜していった。父の死後(1654)、彼はその後を継いで商人となっていたが、1656年3月、23歳のとき、「悪い意見と行動」のゆえにユダヤ教団から破門の宣告を受け、ユダヤ人社会から追放された。その後、オランダ各地を転々として学問研究に専念。『短論文』や『知性改善論』を執筆し、『デカルトの哲学原理』(1663)を出版した。

 スピノザには「レンズ磨きを生活の糧(かて)とし、余暇はひたすら思索に没頭した」という伝説がある。しかし、たとえ孤独で簡素な生活を愛したとしても、スピノザは実際には当時の社会から孤立していたのでも、また極貧にあえいでいたのでもなかった。1672年ルイ14世のオランダ侵略に際して、オランダの専制君主たろうとするオラニエ公ウィレム3世(ウィリアム3世)と政治的に対立していた共和派の指導者ヤン・デ・ウィットは、扇動された暴徒によって虐殺された。このときスピノザはデ・ウィットの横死を激しく嘆き悲しんだという。『神学政治論』(1670)が匿名で刊行されたのは、このような社会的背景においてである。この著作は神学者の不寛容に対して思想の自由を擁護し、この目的のために政治的権力の宗教的権威からの独立を要求したが、たとえば「モーセ五書」がモーセ自身の手になることを否定し、後世の編集によると主張したために、涜神(とくしん)の書として神学者たちの厳しい非難を浴びた。そのため、15年の歳月を費やして完成された主著『エチカ』(1675年成立)を、生前に刊行することが不可能になったばかりでなく、スピノザ哲学そのものが死後100年もの間、「死せる犬」のように葬り去られることになった。

 スピノザは1673年、ハイデルベルク大学の哲学教授として招聘(しょうへい)されたが、教育と研究とは両立しがたいという理由により、また、彼自身の哲学する自由が制限されるのを危惧(きぐ)してこれを固辞し、『国家論』(1675)を最後の著作として、1677年2月20日ハーグで没した。44歳であった。[坂井昭宏 2015年11月17日]

思想
 ノバーリスがスピノザを「神に酔える人」と評したことは有名であるが、彼が死後に至るまで唯物論者、無神論者として恐れられたのは、彼の神がキリスト教的な人格神ではなく、「神すなわち自然」Deus sive natura(ラテン語)と考えたからである。万物は精神も物体も含めてすべて神の現れ、唯一の無限実体の諸様態であり、いっさいは神の内的必然によって生起するから、人間の自由意志も偶然もまったく存在しない。スピノザはこのような宿命論にたって、人間の真の最高の幸福を探究しようとするのである。

 スピノザによれば、個物の現実的本質は「自己保存の努力」conatus se conservandi(ラテン語)にあり、欲望とは人間の自己保存の努力そのものにほかならないが、この欲望が不完全な感覚的認識によって決定される限り、人間は外的対象の支配下にあり、感情への隷属状態を脱することができない。しかし、感情にはこのような受動感情のほかに、精神自体の知的活動に伴う能動感情があり、自己自身の理性的認識によって欲望を決定するとき、人間は自由である。自由とは、スピノザによれば、自己の本性の必然性によってのみ働くことをいうからである。ところで、人間理性の最高の働きとは、事物の究極的原因としての神との必然的関係において、つまり「永遠の相の下に」sub specie aeternitatis(ラテン語)個物を直観することであり、これに伴う自足感こそが「神に対する知的愛」なのである。ここに道徳の最高の理想がある。というのは、人間の神に対する愛とは、神がその様態である人間を介して自己自身を愛する「神の知的愛」amor Dei intellectualis(ラテン語)の一部であり、同時に人間が神の変容である限り、「人間に対する神の愛」にほかならないからである。

[坂井昭宏 2015年11月17日]

『畠中尚志訳『エチカ』全2冊、『神学・政治論』全2冊、『国家論』、『知性改善論』、『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』、『デカルトの哲学原理』、『スピノザ往復書簡集』(いずれも岩波文庫)』▽『桂壽一著『スピノザの哲学』(1956・東京大学出版会)』▽『清水禮子著『破門の哲学』(1978・みすず書房)』▽『工藤喜作著『人類の知的遺産35 スピノザ』(1979・講談社)』▽『ジョゼフ・モロー著、竹内良知訳『スピノザ哲学』(白水社・文庫クセジュ)』

[参照項目] | エチカ 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

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