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初期議会の貴族院と華族(民主主義選挙)

加納久宜」子爵の系譜

1889年2月13日のころの日本の風景
「加納久宜」については自著ページで次のように書いてある。
父の加納久宜(かのう・ひさよし1847-1919)は上総一宮藩の最後の藩主で、のち子爵となり、鹿児島県知事(在任1894-1900)、一宮町長(在任1912-19)を歴任している。
加納久朗(久宜の子)自身は横浜正金銀行のロンドン支店支配人、取締役などを歴任、戦後は日本住宅公団の初代総裁(在任1955-59)を経て、1962年(昭和37)の千葉県知事選挙に自民党の支援を経て立候補、現職の柴田等を破り当選。しかし、就任当時すでに70代の高齢ということもあり、在任わずか110日で急逝している。
現在の千葉県長生郡一宮町を中心とした藩。 1880年から1946年まで存続した半官半民の外国為替専門銀行。現在の三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ。 現在の独立行政法人都市再生機構の前身のひとつ。

というまさに氏の金字塔というべき来歴がしたためてある。また、このぺシーでは加納久宜自身の政治家への道、それはまた日本国が世界に向け、世界標準「議会制民主主義」の国家であることを世界に宣言するアクションでもあった。

初期議会の貴族院と華族

「初期議会の貴族院と華族」Author(s) 佐々木克
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48342/1/67_30.pdf

版籍奉還 とともに,公卿 ・諸侯 を改めて華族 とする,との行政官達によって華族が誕生 した。
しか し華族の称は,個人にあたえられたものなのか,それとも家にあたえられたものなのか世襲か否か,華族は具体的に何をなすべ きか等々について,何一つ定めるものがなかった。
たとえば福沢諭吉が,華族は政治にかかわらず武事に専心すべ きである, と説いた (「華族を武辺に導くの説」1879年2月)のも,そうした事情を背景としていたのである。

■ 版籍奉還(はんせきほうかん)は、明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。明治維新で発足した新政府は、旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し、直轄地として支配した。戊辰戦争中の慶応4年(明治元年)1月から4月(1868年2月から5月)にかけて、新政府は直轄地の統治機関として裁判所を設置した。続いて同年閏4月21日(6月11日)には、政体書で府藩県三治制が定められた。一方で、この明治元年の段階では、藩は府県と並ぶ地方機関と位置づけられ、直轄地以外の諸藩の本領は安堵されてその領主権に大きな制約は加えられなかった。

「藩」というと「幕藩体制」の語にみられるように江戸幕府の下での制度だと思われがちであるが、実際には江戸時代には公式には「藩」という語で大名の領地を呼ぶことはなかった。「藩」は一部の学者などが書物などで使用するのみの語だったのである。
幕末になると大名のことを中国式に「諸侯」と呼ぶことが一般化する。それとともに大名の領地も中国式に「藩」と俗称することが増えていった。それでも「藩」という語が行政区の名称として公式に使用されたのは明治維新後のことで、廃藩置県で藩が消滅するまでのわずか2年程度のことだった。

新政府内での版籍奉還論の形成
新政府では、薩摩藩の寺島宗則や森有礼、長州藩の木戸孝允や伊藤博文らが封建的な幕藩体制の限界を指摘し、その改変を主張した。
慶応3年(1867年)11月、薩摩藩の寺島宗則が土地と人民を朝廷に返還するよう求める建白書を藩主の島津忠義に提出した。島津忠義は、慶応4年2月に親兵創設の費用として10万石を「返献」している。
慶応3年(1867年)12月、長州藩の木戸孝允は第二次長州征討で長州藩が占領していた豊前・石見を朝廷に返還するよう藩に提案した。長州藩は、慶応4年1月に豊前・石見の返上願を出し、それをうけた新政府は、長州藩の預地とするよう指示した。
木戸孝允は、慶応4年(1868年)の2月と7月に版籍奉還の必要を建言している。伊藤博文は兵庫県知事を務めていた明治元年(1868年)10月に、木戸と同様の郡県制論と、戊辰戦争後の凱旋兵士を再編して新政府軍の常備軍とする意見書を出し、明治2年正月には同じ趣旨の国是綱目(兵庫論)を提出している。その間、明治元年11月に姫路藩主の酒井忠邦は、伊藤博文の建白と連携する形で版籍奉還の建白書を提出した。 ■資料ウイキペディア

 「SL一世紀号」武豊線開通100周年記念 

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華族の進路の一つが明らかとなったのが,華族令の制定 日884年7月7日)であった。ここではじめて,華族は国家にとって石用なものであると,法規によって保障を受けたのであった。旧華族 (公卿 ・諸侯)に加えて,新たに勲功華族 (新華族)が華族の列に加わった。新華族の創設は,必 らずしも1890年に開設 される帝同議会の上院-貴族院の構成 をのみ考えてのものではなかったが 「新華族の設は国会準備の-なるか」(柑 本tl!二憲政党新聞』1884年7月26・27日)という民間の声に代表されるように、この段階になると,明らかに華族 と上院-貴族院は結びつけて一般には考えられていたし、そ して華族自体 も, 日覧-貴族院を強 く意識 し始めていた。
その表現の一つが,1885年に起った,華族会館の改良問題をめ ぐる紛議であるが,これについてはすでに触れたのでここでは述べないIr-J華族が,貫族院を目標に した具体的な動 きを始めるのが,1889年,憲法の発布以後である。
この稿はまずそこから始めることにしたいが,貴族院の組織 とその特質については林茂の,そして初期議会における貴族院全体の政治的動 きとその問題については芝原拓 白の,それぞれ先学の業績があるので,それらの点については紙数の関係 もあ り今抑ま触れない。
本稿では,主として公 ・侯 ・伯 ・了一・男各爵を持つ者の集団内の動 き,貴族院の会派の前史とみられる動 き,政治川体の動向等,議会の内外における,華族のグループの動 きに視点を定めて述べることにしたい。
議会開設と華族の動向  伯 ・千 ・男各爵者の動き1889年 (明治22)2月11日,人 口本帝国憲法が発布 され,l朋寺に議院法 と貴族院令が公布された。
ここで華族集団の中で,最 も早 く組織だった動 きをみせたのが子爵者であった。ちなみに, この時点における華族戸数は,公爵11,侯爵28,伯爵80,子爵355,男爵102で,選挙を要する伯子男爵のなかで選挙権 を持つ者は,伯爵74名,7-番300名,男爵85名である (なお華族総戸数は587戸,うち鞭扇8i」,女戸主 3戸を含む)。
1889年2月13日,入棺恒,鍋島直彬 ら子爵有志20余名が華族会館に会合 し,選挙について語り合った。彼 らは早 くから上院-貴族院について関心 を高め,華族社会 において,政治的活動の活発な面々である。
ついで 3月 9日,人給他,勘解由小路資生,松平信正,松平乗承,「加納久宜」ら40余名が集会し(以下,断らない限り.場所は華族会館である), 人給 を会頭,鍋島を副会頭 に選出 し,毎月第二 ・第四火曜に定例の集会を持つことを決めた。
この会の会則 「研精会規則」 と「子爵同志研楕会趣 旨概略 4'」 を同爵 首に配送 した,/この 「研精会規則」第一条には 「本会ハ憲法 ヲ講明シ兼テ有爵者将来ノ任務 ヲ研究 ス」 とあるが 「趣旨概略」 によれば 「憲法 ヲ拝読スル二,帝国議会 ノ貴族院ハ公侯両爵者ハ悉 ク其議員 トナルノ権 アリ,而テ伯子男三爵者ハ各其千分 ノー ヲ互選 シテ議員 ヲ山スノ削ナ リ,我輩 ノ務二服スル最モ偵 ムヘキハ人選ニアリ,宜クー己 ノ得失 ヲ顧 ミス公平無私 ノ心 ヲ以テ適任 ノ者 ヲ選ハサルへカラス,然ルニ子爵者ハ五爵中人員最モ多シ,無慮三百五十名辞,我輩交際 ノ広 カラサル同爵中相識ル者甚 夕少 シ,其人ヲ識ラスシテ之 ヲ選挙 スルコ トヲ得 ンヤ,見放二方今 ノ急務ハ同爵中ノ人ヲ識ルニ在 り--」 と選挙をにらんだ有志の団体であるという本音の部分 を明 らかにしていた。

この時点で会員60余名 といっているが, 首唱者の顔ぶれからみて も,主 として旧華族が メンバーの構成員ではなかったかと推察する例会は4月 5月と続けられたが,同爵首に広 く参加を呼びかけたにもかかわらず,例会出席者は30-40名だけであった。
また 5月 1口には会頭 ・副会頭 を廃 して,大給,鍋島,加納,松平乗承,松平信正の 5名が事務委員となった。

ところで,こうした 一部子爵の動 きに対 して当初か ら批判の声があが っていたが, 6月15日,前記事務委員が 「子爵会事務委員」 を名乗って,来る19日に子爵会 を開催すること,そこで貴族院選挙規程調査委員 5名を選出すること,及び学習院と華族会館の将来について討議することを同爵者に通知 し,あわせて 「了・爵会仮規則5:」 を配付 したことか ら問題が持 ちあが った。
6月19日2時か ら83名が出席 して開かれた集会は 「Tl論 シ乙駁 シ議論沸騰」 した。曽我祐準はこのような 「不法 ノ会」 に加 入することは出来ない と激烈な議論 をな して退場 した。「子爵会仮規則」 は 「本会ハ子爵 ヨリ出ス貴族院議員 ヲ選挙スル便宜 ノ為 メ,同爵者相識ルヲ旨 トシ,其交際 ヲ広 メ兼テ法律 ヲ講明シ,有爵者将来 ノ任務 ヲ研究ス」 (第 1条,仝18条)とあ り,基本的には先の研精会 とほぼ同 じ趣旨 ・内容の ものであった。

ここで争点 とな り批判の対象 となったのは,主 として議長の鍋島直彬 と学習院 と華族会館 についての議事 を提出 した大給恒で,質するに,研精会の幹部 ら一部の子爵が,同爵者に広 くはからず,勝手に規則 を作 って子爵会の名称 をつけ,手続 きを踏 まずにこの 「子爵会」 を開催 しようとした 「専断」であった。
青木周蔵は議事 を後に して,本会の仮規則 を定めることを提案 し,渡辺昇 も,とりあえず仮規則の人体 について可否 を問 うべ きであると発言 し,起立多数でいずれ も可決 となった。

また山尾庸三は,子爵者全体に,本会-加入するか否かを問 うべ きであると述べ,青木の建議で,まず仮事務委員 を選出することにな り,選挙の結果,大給,鍋島 「加納久宜」,松平信正,渡辺昇が当選 した。
えんえん 6時間を要 したこの集会は,およその ところ研精会-旧華族 と新華族との対立であ り,その根底 には貴族院の議員に誰がなるか, というきわめて現実的な問題が横たわっていたのであった。この後 7月 2日,子爵の選挙規程調査委員の選挙がなされ,上述の仮事務委員がそのまま選LV.された。)
この 日,依然 として研精会-の批判が多 く札 結局了膚 会事務委員15名を選出 しこの委員で子爵会規則 を新たに起草することに決 した。
7月 9日投票が行われ,以下の15名が選出された。勘解由小路寮生,谷干城,松平乗承,大給恒,渡辺昇,加納久宜,山尾庸三,松平信正,青木周蔵,鍋島向彬,曽我祐準,五辻安仲,立花種恭,小笠原長育,堀田正養 (得票順、)最高130票,最低45票)U新華族は,杏,渡辺,山尾,青木,曽我の 5名である。
10月12日,会則が制定 されたO興味深いことには 「本会ハ同爵者相識 lJ和親 ミ其全体二間スル利害 ヲ稽査 シ,及 ヒ其権利義務 ヲ講明スルヲ以テ目的 トス」 (第 1条。全9条)と,今回のものには本条項 はもとより全文のどこにも 「議員」 とか 「選挙」 という議会を連想 させ る表現は見 られないことであった。
これは子爵有志の結合,すなわち研精会を,後にみる尚友会のような,子爵議員選出団体のごときものに考 えたのではないか と推測 される研精会幹部の構想 を,それを否定する方向でこの子爵会が組織 されたゆえではないか と見てお きたい。
この後,11月21日,80名の出席で子爵懇親会が開かれ,ついで,12月10口子爵会,43名出席,翌年 1月14日子爵会,48名lrh席, 6月10日子爵懇会,80名出席,同月27日子爵会,58名出席 と,子爵の集会が持たれて,7月10日の子爵議員の選挙 を迎えるのである。〕選挙運動 と見える動 きも史料 に散見する。 しか し,子爵会 自体が,意志調整の場 とな り得 たのか どうか。史料的に判然 としないが,私は否定的に考えている。
次 に子爵以外の華族の動 きをみようo公侯爵有志 は,1889年 (明治22)3月14日に集 まり,帝国憲法,外国の憲法,皇室典範及び議会 について勉強会を催すこととし,名称 を法律研究会とした。ただ し会員は公侯爵者だけではな く華族一般 に呼 びかけた。89年 4月から6月にかけ5回開催 している (出席は,最多57人 最少30人)。

画像【2月5日…この日の出来事】 ◎1877 (明治10年)東海道本線 神戸駅から京都駅までつながる。全線開通記念に明治天皇を迎えて鉄道開通式実施。

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男爵 も同 じく3月14日,椙村止直,千家酎 自らの主唱で20数名が集 まり,毎月第-土曜 日に満18歳以上の者が集 まり談話会を催すことを決めた。

ついで 5月 4日の第 2回例会で,男爵会と名称 を改め6,横付 を会長に選出,6月20日には地方に在住する同爵者に,後 日の 「互選等の期」のために互いに相識る必要があるか ら,懇親 をかねて,来る10月第 一土曜に総会を開 く旨を通知 した。
男爵会は, この年11月か ら翌90年 7月 3日まで17回開かれている (出席者数,最多28人,最少10人J。なお90年 4月22日に規約 を改正,月 3回の開催 とし,演説や討論 を行 ない議会の予行演習のような内容の会 となった。出席者 も,この頃か ら20名前後 と増 えている。

また男爵会の場合,T爵会のような内部の紛糾はなかった模様である。
ついで伯爵であるが,89年 3月12日,束久世適棺,松浦詮,井伊直憲 ら20数名が集会 したのが最初であるCその後 6月未 まで 7回の集会記録があるが,内容は不明である。

7月 2日,調査委員の選出が行われて,東久世通商,柳原前光,伊藤博文,上杉茂憲,広橋賢光の5名が選ばれたが,この選挙の通知 も,伊藤博文以下24名の名前が連記 されているもので,川体名はない。 7月22口,乗久世以下伯爵12名連署で 「伯爵会規則案」が同爵者に配 られ, 9月17E]確定 した 「伯爵会規則」が頒布 された。
それによれば 「伯爵一般交際シ,本爵 ノ義務 ヲ講究」するために設立 され,会 Uには 「法律政治等 ヲ研究シ,又ハ学者 ヲ招待 シ講義質問スル」とある。ついで同月22日には,松浦詮,中川久昭,徳川篤守の 3名が幹事に選任 された。

この演習会議は,翌90年 2月 まで計 6回開催 されているが,第 1回を除けば,大体50名程が出席 している。
この数 を, どのように解す るかむずか しい ところであるO華族全体の員数からみる と決 して多い数 とはいえない。

しか し第一議会開院時の華族議員135名の うち,議会活動に熱心 さの見 られ ない公侯爵議員 8度 除 く三爵議員が105名 (伯15,子70,男20)であ った ことを考慮すると,その半数近 くの人数が,議会 に強い関心 を持 ち,演習会議 に出席 して行 った(と推測される)とい うことを評価すべ きか も知れない。

この他,華族の議会-向けての活動 と しては,華族全体 の研修 を目的 として組織 された華族同方会 (88年 6ノ]設 、r/_)が主催 した講演会 や,華族会館が穂積 八束 らを招 いて行 なった議 院法等の講義があるが ここでは省略する。

華族の選挙
1890年 7月10口,華族会館で買族院伯子労三爵議員の選挙が行われた.即 日開票の結果,伯爵15人,男爵20人の当選者が判明 したが,子爵 は開票 ・集計に手 まどり,徹夜 とな り, ようやく翌 日午 前 5時半に点検が終わるとい う有様であ った。以下,子爵の選挙について若干述べてお きたい。

子爵の選挙権 を有 した者は297名 (被選挙権者272鋸 で, この内,海外 に出ている者 7名,当日棄権者 6名で,投票 した者284名であ った〔)選挙は連記 (定員数70名を連記)記名投票であるから,単純計算で19,880人の被選名 を集計す ることになる。

結果 は,最高得票数277票,最低 137票0260票以上得票 した者 は,勘解 由小路資生 (277票),立花桂恭 〔275票),鍋島涯彬 (273票),大給恒 〔271票), 加納久宜 氏 268票),谷干城 (266票),大河内正 質 〔261票 ),堀 田止養 (262票),松平乗承 (261票)の 9名であ り有権者の90%の支持を得ていたことになる。     また70名の当選者の うち,旧華族44名,新華族26名 となっている。

70名の候補者を,個 々の投 票者が どの ように して選んで行 ったのか興味のわ くところであるが,何 らかの指示,根廻 し (どこからということは小明)があったことが窺 われる史料がある。

国会図書館憲政資料室の土岐草 文書がそれで 「貴族院子爵議員選挙人名簿」 に 「初期被選人」との書 き入れがあ り,人名に△印がつけ られている。即 ち,印の者に投票す る, とい うことであろう。(記事引用〆)

※初期議会 ウィキぺデア
 明治初期の自由民権運動、国会開設運動を経て1890年(明治23年)に成立。初期議会においては政府の超然主義と衆議院が対立していたが、日清戦争後には政府と両院の提携が行われるようになり、大正デモクラシーにより政党政治が行われるようになると衆議院の立場が強まるが、軍部などの勢力の台頭で議院内閣制は確立できず、1932年(昭和7年)に起きた軍部のクーデター未遂である五・一五事件で地位が低下する。特に、1940年(昭和15年)に全政党が解散して大政翼賛会が成立されると、議会は政府・軍部の提出を追認するだけの翼賛議会と化していった。

衆議院では成立当初から乱闘騒ぎがしばしば起きていたのに対し、貴族院ではほとんどなかったとされている。なお、日清戦争中の第7議会は大本営のあった広島市で開催されている。

1947年(昭和22年)3月31日の第92議会で衆議院は解散し、貴族院は停会された。そして、同年5月3日に日本国憲法が施行され、帝国議会は国会に正式名称を変更した。

衆議院と貴族院の二院制で、貴族院は皇族、華族議員と勅選議員、多額納税の議員で構成され、解散はなかった。ただし、皇族が議会に出席したことはなかった。議院相互の関係などは議院法によって規律された。両院は、衆議院の予算先議権を除き、対等の権限を有する。衆議院と貴族院を併せて衆貴両院、衆貴二院と称した。

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下手渡藩の話(加納家血統の系図)
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画像 毎日新聞 最後の一宮藩主・加納久宜 没後100年記念式典にひ孫の麻生副総理出席 /千葉 | 毎日新聞


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