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蛇性の婬

200回アーカイブ記念~

という通知がありましたので、再度、ここにアップしました。

蛇性の婬(じゃせいのいん)

2023年12月17日 18:39

蛇と交わる御伽草子物語(映画化)

『蛇性の婬』(じゃせいのいん)は、1921年(大正10年)製作・公開、栗原喜三郎監督による日本のサイレント映画、長篇劇映画。上田秋成の原作を谷崎潤一郎が脚色した作品として知られる。

ハリウッド出身の映画監督トーマス・栗原こと栗原喜三郎が、横浜に撮影所を持つ大正活映で監督した1作である。

上田秋成の18世紀の小説『雨月物語』のなかの一篇『蛇性の婬』を原作に、小説家で同社の顧問であった谷崎潤一郎が脚色した。同作は、のちに溝口健二が『雨月物語』中の他の一篇『浅茅が宿』の要素を加えて、1953年(昭和28年)、『雨月物語』のタイトルでリメイクしている。

主演の高橋英一はのちの岡田時彦の本名である。真女児を演じた紅沢葉子は同社に入社する前までは、浅草オペラに出演していたが、夫の獏与太平こと古海卓二とともに横浜に移った。鞍馬法師を演じた栗井饒太郎は、のちの映画監督の井上金太郎である。同様に後の映画監督の内田吐夢、二川文太郎も競演している。
※後の「内田吐夢」は、水上勉 名作「飢餓海峡」を制作した。

上田秋成#9・「雨月物語/蛇性の婬」(上田秋成)を読む
2012-04-03 | 上田秋成 2012-04-03 【上田上田秋成#「雨月物物語」】


そこに収められている「蛇性の婬」のあらすじ。
そこには「雨月物語」の中でも映画やお芝居などの素材として取り上げられることも多い著名な作品の一つだった。古典に親しむことなどほとんどない私でも、四苦八苦しながら読むとなかなかの名作だと感じ入ることができる作品と思います。

簡単な話の流れは以下のようです。主人公の豊雄は、家業を好まずまだ親から独立していない、どちらかというと書物を好み夢見がちで優しい青年です。その豊雄、激しく雨が降った日に県の真女児という大変美しい女に出会った。その豊雄、今でいうところの一目惚れで、女に会ったその夜、夢の中で女と肉体の関係を交わす。翌日そそくさと女の所へ出かけていく豊雄、その意味は?気持ちは真女児にすっかり行ってしまっているし、或は女の妖術の手に落ちているとも言えるのだろうか。

しかし、その女の家を探すも誰も知るものがいない、いないことがそもそももおかしいはずなのだが、女のことしか頭がない豊雄はそれがおかしいとは判断がつかない。ようやく女の家に行くと、昨夜見た夢と全く同じ家であったという不思議。正夢か?その時、男は少し不信に思いながらも、女の魅力に虜となってしまい、女から切り出した夫婦になる話に身の不敏を感じながらも約束してしまう。

話は展開し、この女は人間ではなく魔性の者であったことがわかり、恐ろしいめにあった豊雄は親の奨めで離れたところに住む姉のもとで休養をとることとなる。が、魔性の者である真女児はそこまで豊雄を追っかけてきて彼の目の前に現れるのだった。
今度は豊雄も女は人ではないと思いながらも、女が彼をいかに慕っているか、そして私は化け物ではないというという口車にまんまと騙されて、ついに女と夫婦となってしまう。夢の中ではなく現実に男と女の肉体関係をもつことになる。
肉体的な快楽に溺れる豊雄。姉夫婦ともに男は女と吉野に旅に出かけた時、一人の翁があらわれ、真女児はその正体を見破られてしまう。女は邪神の大蛇であったのだ。見破られた女は滝に飛び込み水が涌きだしその姿を消してしまう。

地元に帰った豊雄は富子という嫁を迎えることになるが、その2日目の夜、その富子が真女児に取り付かれてしまう。たまたまいた僧侶は自信たっぷりの祈祷を行うも巨大な蛇の姿となった真女児に負けて死んでしまう。豊雄は自分を好きにしていいと諦めるが、道成寺の僧が袈裟で女を押さえよとアドバイス。
豊雄が真女児を袈裟で押さえると蛇となり、それを僧が鉢に封じ、それを道成寺の地に埋めてこれを蛇塚としたという話。因みに取り憑かれた富子は病死し、豊雄はつつがなく暮らしたのであった。

とまあ、こんな感じなのですが、私が読んでいて思ったのは、この作品に流れている纏わり付くようなエロティシズムです。蛇の邪身が人の男に惚れたこと、蛇から連想される粘着性の触感のようなもの、蛇の邪身が稀に見る美貌の女であり男はそれの虜となったこと、そこには若い男の尽きることのない性的な欲望と邪神としての蛇の貪欲な欲望が絡み合う描写の、しかし文章で読めばそれは比喩的表現をとっておりたいしたことのないものの、寧ろ古典的な美さえ感じることができる文章の持つエロティシズムの力でした。たとえば私がそれを強く感じたのは、以下のくだりです。

豊雄も日々に心とけて、もとより容姿(かたち)のよろしきを愛(め)でよろこび、千とせをかけて契るには、葛城(かつらぎ)や高間(たかま)の山に夜々(よひ)ごとにたつ雲も、初瀬の寺の暁の鐘に雨収(をさ)まりて、只あひあふ事の遅きをなん恨みける。
私が今回手にとって読んでいる「雨月物語」の脚注には、葛城や~のところは、<葛城の高間山に夜ごと立つ雲は雨をふらせるが。奈良県と大阪府・和歌山県との境にある葛城山脈の主峰。葛城山・金剛山。夜と暁、雲と雨は対。雲雨で男女の契りをあらわす。>と解説され、同じく、初瀬の寺の~の脚注は<初瀬寺の暁鐘とともに夜来の雨もやむ>と解説されています。

この部分は、当然、私など脚注の解説なくしては理解が不能なところなのですが、それを読むと、豊雄と真女児の交情が雲と雨、夜と暁という対となっている表現により、彼と彼女は毎夜明け方まで肉体的交歓を繰り返しているのだということを暗にほめのかしていると感じられたからです。真女児という女の姿は田舎者の豊雄には到底お目にかかれない絶品の美女であったに違いない。若い男の欲情は毎夜朝まで女の体を求める。もちろん、それは蛇の邪神としての真女児の罠でもあるわけなのですが。男にとって身の危険を感じる思考を麻痺させるまでに女の体は魅力的だったというわけです。ならばそこにまるで蛇のような纏わり付くエロティシズム感じないわけにはいきません。日本版ファム・ファタール(運命の女)のような・・・。

この豊雄、どこまでも蛇の化身である真女児に纏わり付かれるのですが、この恐ろしいまでの執念深さは脅威的ではあります。しかし、一方でこの真女児の姿勢は邪悪なというよりは純粋で素直な愛情とも見えなくもない気がしします。蛇であるが故に忌み嫌らわれているのですが、どこか両義的な意味を持たせられているように思います。ところで、先にあらすじを書いたように道成寺の法海の法力よって邪神の恋慕から救われ、その後長く何もなく過ごしたと物語は終わります。逆にこの蛇に取り憑かれた富子は病で死んでしままいます。一体、富子は何をしたというのだろうか?たまたま豊雄の女房として嫁ぐことになっただけ。不条理といえばあまりに不条理な。それがまたこの「蛇性の婬」の深みなのかもしれません。



動画


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