「本当の自分」について

前回の記事で、最近までの私は八方美人を演じ、「透明な存在」(代替可能なかけがえのなさを失った存在)になっていたということを書きました。

これについて、また違った見方・考え方が生まれたので、今回はそのことについて書きたいと思います。

「分人」という考え方

「分人」
これは小説家である平野啓一郎さんの
『私とは何か「個人」から「分人」へ』(2012)講談社現代新書
という本の中で提示しているキーワードです。

人間はあらゆる他者との相互関係によって、口調、表情、態度を使い分けて生きています。
分かりやすくいうと、親に対する自分と友人に対する自分は違う、といった具合に、相手に対して最も適当な自分を「演じて」生きているということです。

「分人」は上記のように関わる相手に合わせて現れる自分のことを指します。

一口に「友人」といっても、Aさんとは気兼ねなく腹を割って話せるけれど、Bさんには少し壁を感じるから遠慮しがちになってしまう、というように、多くの人が「分人」を使い分けていると思います。

したがって、分人の数は関わる人の数だけいると平野さんは論じています。

また、「個人を1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい」とし、個性は「複数の分人の構成比率によって決定する」と論じています。

周囲から「おとなしい」と思われている人も、「おとなしい」分人が沢山いるだけで、もしかしたらある一定の人に対してはものすごく活発な分人を見せているのかもしれません。

こうして考えると、「本当の自分」「素の自分」とは一体どこに存在するのでしょうか?

「本当の自分」など存在しない

結論から言うと、平野さんは

たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である

としていて、たとえ部屋の中で一人で篭って考え事をしている状態でも、そこには「本当の自分」はいないと言っています。

たしかに、自分が何かについて考えてる時
他の人にどう思われるかなという他者意識ははたらくし、悩み事の根源は自分一人の問題ではないし、そもそも自分の判断材料は他者からの価値観に影響されているから、本来の純粋無垢な自分なんてないよな…分人が立ち現れるよなぁと…
(「本当の自分」の定義にもよりますが…)

「透明な存在」の自分も本当の自分

こうして考えると、記事冒頭で述べた「透明な存在」の自分も、実はニセモノなんかじゃなくて「本当の自分」なんだと気づかされました。

仲良くなれなかった友だちも、単に自分に対して全くの無関心だったのではなく、その人なりに「私に対する分人」を見せてくれていたということ。
自分が関与できるのは「私に対する分人」の範囲であるから、他の子とは仲良くしてるのになんで私とは…と思う権利も、それで悩みすぎる必要もなかったんだなと。
仲良くなりたければ、自分もその子に対する「分人」を振り返り、改める必要があると思いました。

キャスターやインタビュアーと幅広くご活躍されている阿川佐和子さんも、ご自身の著書『聞く力 心をひらく35のヒント』(2012)文集新書で

「すなわち、人は皆、三百六十度の球体で、それぞれの角度に異なる性格を持っていて、相手によってその都度、向ける角度を調節しているのではないか。(中略)いつまで経っても未知の部分があるからこそ、その人に対する興味が尽きることがないのだと思います」

とおっしゃっていました。

先入観に囚われがちな人間関係ですが、相手の新たな一面を知った時に
「そんな人だとは思わなかった」
と失望するのではなく、むしろ、
「そんな一面もあったのね、素敵!」
と自分に新たな一面を見せてくれたことに感謝するくらいの気持ちでいられたら、もっともっと相手を愛せるようになるのかなと思います。

これから先、沢山の人との出会いがあり、その度に分人が生まれると思うと、少し不安ですが、同時に好きな「分人」が増えるチャンスでもあると捉えると、少しずつ自分を肯定的に受け止められる気がします。

また記事の着地点がぐらついてしまいましたが、今回はここで区切りたいと思います。

最後まで読んでくださった方に溢れんばかりの感謝をお伝えします。


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