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おはなし

突然ではありますが、私こと蜷貝弥生は
『自分のことを正しいと思っている方』について苦手と思っております。

先日もひとり、そういった気のある方のひとりとお別れいたしました。
もうああいった方とはお近づきになりたくないです。

『根拠のない正しさ』という宗教

おそらく彼らも多くは私のようなものを苦手と思っているのだろうなとも思っていて、
これは私が『根拠のない正しさ』という宗教を信じていないことに起因するのだろうと予測立てています。

常日頃から「何も信じるな」と発信しているように、何かを盲信することは基本的に危険で、避けるべきです。

近頃俄に取沙汰されるように、自分のことを正しいと思っている方は、正しくないと思っている対象にひどく残酷な行動を取ることができ、
また彼らはその行動に責任感を持ちません。
彼らの行動の責任は『正しさ』が取ってくれるのです。
彼らの行動原理とは、神の名の下ならば人を殺しても罪にはならないとか、そういった宗教と何ら異ならないのです。

勿論、彼らのひどく残酷な行動がそうであることは、根拠のあるなしに依るものではないのですが……

ただ、それ故に私は彼らのことを「正しくない、即ちいけないことだ」と糾弾するつもりは毛頭ありません。
何故なら、先述した理由は『根拠のある正しさ』ではないからです。

そうです。私は彼らのことを苦手だと思っていて、
おそらく彼らも私のことを苦手と思っているでしょう。という……

「それ、あなたの感想ですよね?」という呪い

察しの良い方は気付いたと思われますが、
多くの『根拠のない正しさ』の根源にあるもの
そして、私が彼らを苦手と思うことの根源にあるものは実は同じもので、
それは感想です。

有名なあのシーン

これは呪いです。
この言葉を言う側ももちろんのこと、
この言葉を言われたくないがために、この原典の、この言葉を言われた方と同じことになっている方の、いかに多いことか。
これは呪いです。

元々この発言がなされた状況では「感想である」ということが問題なのではなく、
「感想でしかないものをさも正しいふうに言った」ということが問題だったはずです。

つまり、感想しか根拠がないにも関わらず
感想では根拠として不十分であるとして、
その根拠をかなぐり捨てようとした結果、生まれてしまうのです。ヤツが。
『根拠のない正しさ』が。

こうして生まれた根拠のない正しさなんてものは、
なんかそういうデータとかも何もない、まさにウソの産物であり、
正しさとしての責任能力などありません。
彼らは、自ら取れない責任を負っているに過ぎないのです

はっきり言いますが、『根拠のある正しさ』が必要な場面は限られていて、
なおかつその場面でも、そうではない場面でも
『根拠のない正しさ』なんてものは全くもって不要なのです。
『根拠のある正しさ』が必要ない場面では、そんなものよりただの感想のほうがまだあてになるでしょう。

とにもかくにも、私は彼らのことが苦手であり、
彼らも私のことを苦手なのだろうという
感想と感想の抵触があるだけに過ぎない、と
そう言ってしまえばそれだけのお話でしたが……

皆さんもぜひ、自身の感想に基づき、責任の所在がはっきりした行動を心掛けてみてはいかがでしょうか?

おはなしは以上となります。
ご覧いただきありがとうございました。

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